「こころの受け皿」
私の永平寺での修業時代に、ある一人の先輩和尚さんに出会いました。その方は、一般家庭に生まれ、その後5歳か6歳の頃に両親が離婚をしたのですが、父親も母親も自分とニ歳下の弟を一切引き取ろうとはしなかったそうです。親戚中を訪ねてまわり、ようやく迎えてくれたのが、父方の遠い親類にあたる、今の住職夫婦のところでした。以来、産んでくれた母の顔をもう一度だけ見たいと、子供心に何度も思ったそうですが、結局産みの母は一度も会いには来ませんでした。
ここまで話を聞いた時点で、もし私が同じ境遇だったなら、会えない寂しさが転じて産みの母親に見捨てられたという思いに至り、思春期の心は恨みの感情に苛まれ、到底お坊さんになって住職の跡を継ぎたいという気持ちにはなれないだろうな、と思いました。ところが実際のその先輩和尚さんは、出家して立派に修行を勤め上げ、今では住職夫婦の事をとても大切にされています。一体これまでどんなお気持ちだったかお尋ねしたら、両親の離婚も一度も会いに来なかったことも、いろんな事情があっただろうから、今では仕方の無かった事だと思う。それよりも、ここまで育ててくれた住職夫婦には本当に感謝していて、一生を懸けて恩返しをしようと考えたら、お坊さんになる以外に道はないと思ったそうです。
人は物事を受け止める時、他人を傷つけず、怒りや憎しみに囚われない心の在り方を持つ事によって、こんなにも尊い生き方ができるのです。これが、お釈迦様の教えの中の「正思惟」(しょうしゆい)という教えです。
人間には生きる上でかなりの自由が許されていますが、まず自分以外の自然や他人の命を尊重すること、怒りや憎しみに任せて言動しないこと、欲を貪らず程々で足りるのを知る事、これらの事に一瞬一瞬気づきながら、尊い一生を全うするのです。
児島 龍憲