法  話

HBCラジオ「曹洞宗の時間」(毎週土曜 午前6時15分〜6時19分)にて放送された、
北海道各地のご住職の法話を掲載しております。
また、実際にラジオで放送された音声データの配信も行っております。

ポッドキャスティング 配信データ

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12月 2016/12/31
「除夜の鐘」

2016/12/24
「良寛さま」

2016/12/17
「お陰さま」

2016/12/10
「坐禅御詠歌」

2016/12/3
「幸福」

11月 2016/11/26
「仏縁に感謝をして」

2016/11/19
「未来へ」

2016/11/12
「坐禅の心」



10月 2016/10/22
「姿は変われども」

2016/10/15
「日本の美しい習慣」

2016/10/8
「食事」

2016/10/1
「利他行」


9月 2016/9/24
「洗心」

2016/9/17
「言葉」

2016/9/10
「感謝の気持ちを込めていただきます」

2016/9/3
「健体康心、健康とは・・・」


8月 2016/8/27
「変わらぬこと」

2016/8/20
「威儀即仏法 作法是宗旨」

2016/8/13
「あたなの帰る場所」

2016/8/6
「時を経て頂く教え」


7月 2016/7/30
「命」

2016/7/23
「供養」

2016/7/16
「知恩・感恩・報恩」

2016/7/9
「利行」

2016/7/2
「脚下照願(きゃっかしょうこ)」

6月 2016/6/25
「華」

2016/6/18
「縁」

2016/6/11
「移り変わる」

2016/6/4
「仏の顔も三度まで」


5月 2016/5/28
「供養」

2016/5/21
「挨・拶」

2016/5/14
「唯我独尊」

2016/5/7
「布施行について」


4月 2016/4/30
「坐禅」

2016/4/23
「こども論語塾」

2016/4/16
「梅」

2016/4/9
「水鳥」

2016/4/2
「利行」

3月 2016/3/26
「幹」

2016/3/19
「梅の花」

2016/3/12
「天地宇宙の真理」

2016/3/5
「優しさのバトン」


2月 2016/2/27
「お菓子の取り合い」

2016/2/20
「命」

2016/2/13
「無常を感じるとき」

2016/2/6
「安心」


1月 2016/1/30
「命の尊さ」

2016/1/23
「誠意」

2016/1/16
「誰かの仕事で出来ている」

2016/1/9
「合掌」

2016/1/2
「さる年」


2016年12月31日放送「除夜の鐘」

お寺、そして大晦日と聞けば大抵の方が「除夜の鐘」を思い浮かべるのではないでしょうか。鐘を撞くことによって心の中の煩悩を取り除く。ですから煩悩の数と同じ108回鐘を撞くとされています。

さて、今より20年前、私は横浜にございます大本山総持寺にて、修行僧として日々を過ごしておりました。年末も近づいたある日、除夜の鐘の担当という大役を頂きました。担当とはいっても鐘を撞くのは私ではなく、当日お集まりくださった一般の方々。私の役目は鐘の撞き方の作法を一人一人に伝え、そして鐘が一つ撞かれる度に額を地面につけるお拝を一般の方の代理となり行うことでした。

この除夜の鐘には様々な人が集まります。年配のご夫婦なのでしょうか、お二人で一本の綱を握り鐘を撞く方。本来の意味からは外れてしまいますが、願掛けをされる方。ただ一言「ありがとう」と呟き鐘を撞かれる方。ほかにも沢山の方がいらっしゃいましたが、皆さん全員に共通することがあります。鐘を撞き終えると晴れ晴れとした善いお顔になって帰っていかれるのです。いま思えばそれこそが除夜の鐘の御力だったのかもしれません。

あと十数時間もしますと除夜の鐘が鳴り響きます。菩提寺に除夜の鐘を撞きに行く、そのような年の越し方もよいのではないでしょうか。


厚岸町 吉祥寺
斉藤 章道さん


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2016年12月24日放送「良寛さま」

早いもので、今年も残りわずかとなりました。今日は日本中の子供たちにとって、待ちに待ったクリスマスイブ。今夜サンタクロースはきっと子供たちの所へ訪れ、プレゼントを届けることでしょう。

さて、皆さまは良寛さまをご存知でしょうか。子供たちと一緒に手毬で楽しそうに遊ぶお姿が有名です。
良寛さまは曹洞宗の僧侶で、江戸時代中期、新潟県の出雲崎にお生まれになりました。
家は出雲崎の名主でいずれは跡継ぎと期待されました。しかし二十二歳で僧侶を志し、出家されました。
良寛さまは生涯、寺を持たず庵で質素に暮らしておりました。

書や和歌や俳句にたけており、何より良寛さまは子供たちが大好きで、手毬やかくれんぼ等をして一緒に遊ぶことを楽しみとされておりました。
良寛さまは「童心の人」と呼ばれます。童心とは、わらべの心と書き、「子供の心を持った人」ということです。

良寛さまは、大人子供わけ隔てなく接せられました。
そこには分別なく、あるがまま純粋に受け入れる心があったからこそだといえましょう。

私たちは常に自分を基準にして、こだわりや合うとか合わないとかで好みを振り分けることがあります。
そうして自分に都合の良い環境を作りますが、かえってそれが身を狭め、苦しみを生むのです。

子供にはこだわりがなく、あるがままの純真無垢な、柔らかく透き通った心をしております。全てのことをありのまま純粋に感じ、分別なく受け入れる事が童心であり、仏心(仏の心)とも言えるのです。

あと少しで新しい年を迎えます。今年の内に自分と向き合い、こだわりというものをひとつひとつ捨て去ってみませんか?


清里町 龍川寺
松井 圭佑さん


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2016年12月17日放送「お陰さま」

年越しの準備も忙しくなってくる頃かと思いますが、いかがお過ごしでしょうか?
今年一年振り返るだけでも、前例の無い自然災害、世界各地のテロと心痛めるニュースばかりだったと思います。しかしその一方、それらを乗り越えるのもやはり人の力なんだと気付かされた日々でもありました。苦しい時、辛い時こそ家族の力、地域の力に勝るものは無いんだと。

普段、私たちが良く使う言葉に「お陰さま」という言葉があります。「お体、調子はどうですか?」と聞かれたら「お陰さまで、何とか元気で過ごせてます」と。「お仕事、調子はどうですか?」と聞かれると「お陰さまで、何とか順調にやれてます」と、色んな所で耳にする事があるかと思います。

この「お陰さま」という言葉は、真ん中の「陰」という文字、その頭に「お」を付けて、更にお尻に「様」まで付ける。それほどこの「陰」というものを大切に扱っているんですね。

それじゃあこの「陰」という文字はどんな意味なのか?調べてみますと「神仏のご加護」という意味なんですね。ですから私たちは普段の何気ない会話の中で、この目には見えない「神仏のご加護」に感謝をしているんですね。

私たちは決して自分一人の力で生きている訳ではありません。自分が気付いてないだけで、色んなものに支えられ、繋がりの中であって自分というものが存在出来る。その事に気付く事が出来れば、普段の何気ない日常の中にこそ、私たちが感謝をしなければならないものが、きっと見えてくる事かと思います。


留辺蘂町 大雄寺
米田 憲人さん


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2016年12月10日放送「坐禅御詠歌」

曹洞宗には、梅花流詠讃歌という御詠歌がございます。
昭和二七年道元禅師七〇〇回忌を記念して創設されました。
現在、海外も含め全国の曹洞宗寺院に約六四〇〇の教室があり十七万六千人の方々が梅花流詠讃歌をお唱えしております。
本日はその中の一つ、『坐禅御詠歌』というものを、お唱えさせていただきます。

  濁りなき心の水にすむ月は
         波も砕けて光とぞなる 光とぞなる

御詠歌を通して仏教を学んでみたいという方は、いつでも、曹洞宗のお坊さんへお尋ねください。


札幌市 峯光寺
小野 隆見さん


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2016年12月3日放送「幸福」

朝に生まれ、夕に死すとは、人の命の儚さを言った言葉ですが、目まぐるしい世の中では、死の対極にある生きていることの大事さ、ありがたさに思い至ります。

西洋でこの様な諺があります。「人生にとって幸福な音が三つある。一つ、夫が家にいて、静かに本を読んでページをめくる音。二つ、その傍らに妻がいて、何かを作っている音。三つ、その夫婦の側で、子供が元気に遊んでいる音。」
夫はテレビの野球を見て、妻は台所で野菜を刻み、子供はオモチャで遊ぶ。このような光景はどこの家庭でもあり、取り立てて幸福感というものではありません。

しかし、この平凡なことが、実は、最高に幸せなもの、幸せな時間だったのだと気付くときがあります。それは、それらのうち、誰かが欠けてしまって、もう会えなくなった時です。失ってはじめてそのことが、自分にとって一番幸せな時間だったということがあります。皆様方は、今まさにそれを感じておられると思います。当たり前のようにそこにある。だからそれがその時には幸福だと気付かない。

そうだとすると、こんなことは身の回りにいっぱいありますね。体が動くこと、家庭があること、働く場所があること、そして何より生きているということ。 それは全て大きな幸福なのです。しかし、それはいつなくなるかは分かりません。ですから本来はもっと幸せを感じるべきなのでしょう。

「果報は寝て待て」という諺があります。幸運を求むるには焦ってはいけない。待っていれば自然とやって来るもの、という意味なのでしょう。また、幸運に巡り会った者、運が強い者を果報者(かほうしゃ)と言います。仏教では因果応報ということを説いています。因果とは原因に対する結果ということで、人の行いや考え方によって良い結果も悪い結果も出るということです。感謝の気持ちを持って生活すると、幸せという結果が出るようです。


紋別市 永建寺
上野 峰弘さん


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2016年11月26日放送「仏縁に感謝をして」

みなさんはご縁を感じる時はあるでしょうか?そしてそのご縁に感謝する時はあるでしょうか?仏教ではご縁に仏をつけて仏縁と申します。み仏とのご縁をいただき感謝報恩の気持ちを表し、仏の教えと共に生きる道を歩ませていただく。そんな思いで日々生活していけたらうれしく思います。

人と人とのご縁、物事とのご縁、そして何よりみ仏の教えをいただいた仏縁。もしもご縁を感じた時、感謝しありがたいという心に思えたならば、それはとても大切なご縁といえるのではないでしょうか。何よりも今、この時を生きるという仏縁に出会えたことへの大切なご縁に。み仏に感謝し生きる喜びと悲しみを一緒にご縁をいただき歩んでいけたらうれしく思います。南無釈迦牟尼仏、南無釈迦牟尼仏と。

もしも今日これから何かご縁を感じありがたいと感謝し、み仏の心と共に生きることができたら大切な一日と思えるでしょう。

仏縁にありがとうという思いと共に。


釧路市 潮音寺
田村 龍識さん


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2016年11月19日放送「未来へ」

ご存知の通り、日本にはかつて、物が乏しく今では考えられない程の厳しい時代がありました。

しかし、そんな時代だからこそ人々は、共に「生きる」術を考え、「生きる」事に真剣で、手を取り合い心を寄せ合いながら生活をしておりました。「生きる」素晴らしさを今に繋いでくれた先祖様に心から感謝し、そして誇りを持って、その命を未来へと繋いでおりました。

今は物に溢れ、物の山に心が押しつぶされてゆくような、心のやりとりではなく物のやりとりにしか感謝できないような、そんな時代に感じられませんか?

溢れかえる物で心の隙間を埋め続けると、いつしか心を見失ってしまうかもしれません。心を見失っている人に、他人の心を気遣うことなど到底出来ません。

たとえ暮らしが豊かになっても、心が貧しくなっていくのであれば、それは幸せとは言えません。たとえ「文明」が発達しても、「文化」が衰退するのであれば、そこに人と人との心の繋がりが育まれることはありません。

自分さえよければいい。自分さえ楽しければいい。自分さえ生きていければいい。

都合の悪いことは人のせい。親のせい。世の中のせい。

心無い犯罪、悲しい事件を招いている原因の一つではないでしょうか。

先ほども申し上げましたが、日本には今よりも、共に手を取り合って、「生きる」ということを頑張っていた時代がありました。今よりも、共に心を寄せ合って、「生きる」ということを感謝していた時代がありました。今よりも、共に誇りを持って、「生きる」ということを大切にしていた時代がありました。

心の隙間を物で埋めても満たされることはありません。心は心で満たしてこそ「真心」になるものです。

人間らしく生きるために、その「真心」を兩の手で大切に抱き、守り、育んで頂きたいと思います。


稚内市 寿徳寺
佐々木 隆宣さん


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2016年11月12日放送「坐禅の心」

本日は、坐禅の心をお話ししたいと思います。
曹洞宗の坐禅は、自らの体と心を調えて、ただひたすらに坐るという方法であります。これを只管打坐(しかんたざ)といいます。

過去や未来を心に置かず、たった今に集中し坐る。今しか心に置かず、最後は今坐っていることも気にしなくなる。そのような状態になった時、心には何もなくなり、安らぎそのものになる。この坐禅の心を日常生活に生かしたいものです。

例えば、ドライブでどこかに向かう時、到着してからのことを運転しながら考えてますと今に集中してませんから、危ないですよね。まだその場所には到着してませんから、今考えなくてもいいことです。 到着してから考え、やるべきことをするべきです。ですから、今ドライブ中にやるべきことは、運転に集中することです。たった今の運転に集中しなければ無事に到着するという未来はありません。

まだ来ぬ未来を心においていますと心ここにあらずということになります。不安や焦りも出てくるでしょう。気をつけたいものです。

また例えば、私は仕事上お檀家さんの仏壇でお経を唱えます。その時、過去のことやどうでもいいことを考えてたらどうでしょう。お経を唱えながら、昨日のことを思い出したり、早く今日の仕事終わらないかなあなど、過去のことや雑念を持っていますと誰のためにもなりません。しっかり皆さまの幸せや守護を願い、お経を唱えなければいけません。

自分の為にも皆の為にも今一番やるべきことに集中すべきです。
この純粋なる慈悲の努力がたった今の命を輝かせます。 またそこに安らぎも見いだせます。この坐禅の心を実践し、本当の意味で輝かしい、安らぎある人生を送りたいものです。


枝幸町 長林寺
島崎 元輝さん


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2016年10月22日放送「姿は変われども」

いよいよ秋も深まり、お寺の庭の掃除に追われる毎日です。

先日、木の下の落ち葉に鳥の巣が落ちていました。おそらく、今年の春先ににぎやかな鳴き声が響いていた小鳥の巣です。わたしは、枯草などで円くきれいに作るものだなぁと感心して手に取って見ました。
その巣をよく見てみると、底のほうがたくさんの黒い毛で作られていました。それは春先に抜け変わった、お寺で飼っているペットの毛でした。小鳥の大事な卵、そしてかえったひな鳥を優しく包む布団のようでした。

気がつけばまわりの落ち葉も木のいのちを支えていた存在。そして地面の虫たちをやさしく包む布団や家に見えてまいります。
すべてが役目を終えた存在ではないのです。

例えば、一本の木があります。山にあるときも木、伐られて薪になっても木、燃やされて炭になっても木です。すがたは変われどもそれぞれのときにおいてしっかりと存在し、ただ私たちが状況によってその名前を呼び変えているだけなのです。

動物の毛は冬の寒さを防ぎ春に抜け落ち、時として鳥の巣にかわる。木の葉は太陽をいっぱいに浴びて木を成長させ冬を前に散り、地面の栄養となり多くのいのちをはぐくむ。
まさにそのときそのときに大事な唯一無二の尊い存在となって様々に関わりあい存在しています。

わたくしたち人間は、生かし生かされている真実を理解できる生き物です。
また今朝も無事に目覚め、ただひとつのこのいのちをいただいているのです。
多くのいのちや存在を見つめ、尊重して、ともにより善く生きること、それがお釈迦様の説かれた教えなのです。


士別市 玉運寺
坂野 亮宗さん


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2016年10月15日放送「日本の美しい習慣」

澄み切った秋の風が吹き抜けて参ります。スポーツの秋、読書の秋、食欲の秋。皆さんは何をして過ごされていますでしょうか。
この秋も、あっという間に過ぎてしまいますが、いつも通りに過ごしてまいりましょう。

今日は、日本の美しい習慣についてお話しいたします。
お寺の近所にある床屋のTさんは健康に心掛け、毎朝5時、大きく腕を振ってウォーキングをされていました。
3年前に奥様を亡くされてから、年齢の事も含めて、衰えられましたが、「あいつに今迄世話になった分を返すんだ」と仏壇のお位牌の前で手を合わせ、毎月の月参りの際には、老いと暮らす毎日を、いつも楽しく聞かせて下さいます。

8月の事でした。私がいつもの様にお供えをした「おりくぜん」を目の前に座ると、
「住職さん、私は、今日はもう嬉しくて、安心してこの世を去ることが出来ます」
と申されました。「何か良い事でもありましたか」と返すと、
「今日のご飯は、息子の嫁がいつの間にかやってくれたんです。もう私には何も伝えることはありません・・・」
Tさんの安心とは、脈々と流れ去る「法」という教えの流れの中で、「自分から進んでお供えをするという行為」を伝えることが出来たことで、この人生に悔いはないということでした。

お釈迦様は「私の出来ることは全てやり終えた」と申され「得度の因縁を為した」とされます。「後の人の為の原点として、その姿を示すことが出来た。私はその姿を追う者の心の中にずっと生き続けるであろう。」と遺されています。

この姿は無言のうちに、押し付けることなく届いた想いなのです。
毎日の行為は「まるで荷車を引く牛の足跡に、必ず車輪の跡が付いてくるように」結果として自ずと付いてまいります。
さあ、安心して今日も元気にまいりましょう!


増毛町 龍渕寺
野村 宣英さん


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2016年10月8日放送「食事」

私が住む留萌市幌糠町は、豊かな自然に囲まれた留萌管内でも有数の稲作地帯です。秋の今頃、農家の方々は黄金に色づいた稲穂を刈り取る作業の真っ最中です。

道元禅師の数ある著作の中に『赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)』という著書があります。これには禅道場における食事の仕方や注意点について書かれています。例えば食事の準備や給仕の仕方、器の持ち方やおとなえごとなどの食べ方についても詳しく丁寧に示されています。

その『赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)』に示されている食事の際のおとなえごとの一節に「一つには、功の多少を計り、彼の来処を量る」とあります。これは、この食が天地の恵みを受け、多くのご縁によって目の前の料理となったことに思いを巡らせ、そのご縁に感謝することを教えています。

稲が収穫されお米となり、食べる過程を見てみても、田をおこして種をまき、田植えをして育った稲を刈り取り、乾燥させて脱穀、精米してようやく米となり、それをとぎ、炊いて初めてご飯となります。
稲が育つ為には太陽の光や水などの自然の恵みはもちろん、お米として食べられるようになるまで農家の方や調理する人の手が必要なのです。

現代の日本語の「たべる」という言葉は、いただく、頂戴するを意味する「たぶ」という言葉の丁寧な言い方です。それは天地の恵み、自然からの賜わり物に感謝しこれを頂戴するということです。
お米だけでなく、野菜や果物、肉、魚などは皆、私達に食べられる為に生きているわけではありません。これらの命と多くのご縁によって私達は食事を頂き、命をつないでいます。

そんな私達だからこそ「食事」という何気ない日常を見つめ直していきたいものです。


留萌市 正林寺
傳法 智道さん


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2016年10月1日放送「利他行」

仏教には相手の幸せを共に願い行う「利他行」という教えがあります。
今日はそれにまつわる一編の詩を紹介いたします。

「一人の悩みを癒しえば 一人の憂いを去りえなば 疲れし鳥の一羽をば 助けてその巣に返しえば 我が生活は無駄ならず」
アメリカの詩人 エミリ・ディキンスンさんの詩です。一人でもいい、小さな小さな小鳥のような存在でも、私に出来る事をしたのならば、その人生は、むだではない。

これは、先日、伺った東京高田馬場にある「日本点字図書館」で出会った詩です。
実は、この日本初の点字図書館を建てたのが、私の地元増毛町出身の本間一夫さんです。本間さんは、日本最北端の酒蔵「国稀酒造」で大正四年に生まれました。

五歳のころ脳膜炎により失明、十三歳で函館の盲唖院に入学し、そこで点字と出会います。在学中、イギリスには点字図書館がある事を知りました。

そこで「後から来る、目の見えない方の為に、いつかは、日本でも、点字図書館を建てたい。」と思い始めました。
昭和十五年十一月十日、本間さんは、様々な困難を乗り越え、日本初の点字図書館を設立いたしました。
しかし、太平洋戦争の混乱で、火災にあい、残った図書を増毛町の実家に持って行き、戦中はそこから、点字を翻訳し全国に届けておりました。

点字図書館の方がこう言います。現在、点字図書館にある蔵書は二十七万冊を超え、日本や世界で点字を必要とされている人や関わる全ての人達へ幸せを届けていますよ。
点字図書館には、本間さんの相手の立場を想い「あなたも、私も、一緒に幸せになろう」という願いが満ち溢れていました。
これが、相手の幸せを、共に願い、共に寄り添い、共に歩む「利他行」の姿です。


増毛町 天総寺
谷 龍嗣さん


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2016年9月24日放送「洗心」

今日9月24日は「清掃の日」だそうでございます。これは、昭和46年のこの日に「廃棄物処理及び清掃に関する法律」いわゆる「廃棄物処理法」が施行されたことにちなんでおります。
特に今日から10月1日までは環境衛生週間として廃棄物の削減、資源の再利用に努めましょうという期間で、生活環境を清潔にすることで生活環境の保全、公衆衛生の向上を図ることが目的とされております。

私達は生きている以上様々なゴミを出します。一つには自らの生命維持のために出す老廃物。それに生ゴミや紙くずなどの生活ゴミ。そして知らず知らずのうちに溜まっていく心のゴミです。
心の汚れも掃除、正しい処理をしないと、正しいものの見方が出来なくなるどころか、やがてそれがゴミとなり重大な病気を引き起こしかねない廃棄物となってしまいます。

禅の言葉に「洗心」というものがございます。これは文字通り心を洗うということです。それでは心を洗うにはどうしたらよいでしょうか。

一つは身の周りを整えることです。まずは目の前の小さなゴミから捨てることから始めましょう。そうして身の周りが整理整頓されてスッキリとしてゆけば物に対する執着から解放され気持ちもスッキリとして余裕ができるはずです。
そしてもう一つの方法が坐禅です。一日の終わりに少しだけの時間姿勢を正して呼吸を整え静かに坐り、自らを反省する時間を作ってみましょう。その日の心のゴミはその日のうちに。

「今日はあんなことをしてしまった、こんな事を考えてしまった」などうまくいかなかったことを素直に反省しましょう。
それが習慣づけられることによって心が洗われていくに違いありません。
どうか皆様が身の周りを整えると共に心の環境保全、心の衛生の向上を図り、より豊かな毎日を過ごされますようお祈り申し上げます。


島牧村 千走寺
村上 大玄さん


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2016年9月17日放送「言葉」

皆様は、自分の言葉で相手を傷つけてしまったり喧嘩をしてしまったり、トラブルになったことはありますか?
おそらく多くの方に覚えがあるかと思います。私もたくさんあります。
それではその時、どのようにすると良かったのでしょうか?

道元禅師は「言(ことば)を出(いだ)さんとせん時は、三度顧(みたびかえりみ)て、自利利他(じりりた)の為(ため)に利あるべければ、これを言ふべし。利なからん時は止(とど)まるべし。」とお示しです。
これは、ものを言おうとする前に、その言葉を3回よく考えて、その言葉が自分の為にもなる、そして相手の為にもなる、そうであるならば言いなさい。しかし、自分の為にも相手の為にもならないのであれば、言うのはやめなさい、ということです。

私達は、つい思いつきで言葉を発してしまって、知らず知らずのうちに相手を傷つけていることがあります。TV等のメディアを通して、発言を撤回したり謝罪している場面もよく目にします。

3回考えてからものを言うというのは難しいことです。そこで道元禅師は「是(かく)の如き、一度にはしがたし。心に懸(か)けて漸漸(やややや)に習ふべきなり。」ともお示しです。一度にこれを行うことは難しい。常に心掛けて徐々に学んでいくように、ということです。

会話をしておりますと、3回考えるということを忘れそうになりますが、3回までとはいかなくても、一旦考えてから言葉を発する。この事を常に心掛けてゆくことで、言葉によるトラブルは減ってゆくことと思います。


札幌市 峯光寺
小野 隆見さん


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2016年9月10日放送「感謝の気持ちを込めていただきます」

九月に入り夏の暑さが少しやわらぎ、やっと涼しさを感じ始める秋の季節になりました。読書やスポーツ、行楽と様々なことに挑戦しやすい季節でもあります。皆さんは秋といえば何を思い浮かべるでしょうか。実りの秋でもありますから食欲の秋という方もいるでしょう。

私たち僧侶は食事を頂く際、「五観の偈(ごかんのげ)」を唱えます。この五項目をよく心にとめて食事をするようにという教えです。
禅の修行道場では、洗面や入浴、そして食事など日常の生活すべてが仏道の実践であり、禅の心と形を表すものとされます。なかでも重要なのが食事の作法で、これから口にする食べ物への礼拝、箸、匙、器の扱いなど厳しい所作で行われます。
日々の食事を通して自然の恵みや、社会の人々の働きに感謝の思いを持つことは修行者だけでなく、誰にとっても大切です。

あらゆるものが縁によって成り立つという仏教の思想、食べ物を大切にするということが仏さまの教えに当てはまります。たとえ米一粒でもその来処をたどれば沢山の人々との関わりがあります。食事の前後に合掌して感謝の意を表すことは生き方の姿勢としても大切ではないでしょうか。

もうすぐ秋のお彼岸です。実りの秋に感謝するとともに御先祖様への感謝の気持ちを込めて皆さんも食事をする際に「五観の偈」を唱えましょう。

一つには、功の多少を計り、彼(か)の来処(らいしょ)を量(はか)る。
二つには、己が徳行(とくぎょう)の全欠を(と)忖(はか)つて供(く)に応ず。
三つには、心を防ぎ過(とが)を離るることは貪等(とんとう)を宗(しゅう)とす。
四つには、正に良薬を事とするは形枯(ぎょうこ)を療(りょう)ぜんが為めなり。
五つには、成道(じょうどう)の為めの故に今此の食(じき)を受く。

南無釈迦牟尼仏


長万部町 大慈寺
大徳 賢之さん


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2016年9月3日放送「健体康心、健康とは・・・」

暑い夏も終わり爽やかな初秋の季節を迎えました。秋と言えば何々の秋という言葉がいろいろありますが、今朝はその中のひとつ、スポーツの秋という事で、お話をさせていただきます。

体力作りに励むいい季節となり多くの人がジョギングや山歩きなどの運動にいそしんでいる事だと思います。そしてその第一の目的は、やはり健康作りではないでしょうか。
健康な人になりたいという思いは、全ての人の願いでありますが、その健康という二文字のもともとは、健康の健に体、健康の康に心と書いて健体康心という四文字から成り立っているのです。

すなわち健やかな体が健体であり、康らかな心が康心であります。が、いつの間にか丈夫な体、元気な体のみの健体だけが健康の目的となってしまい、康らかな心、康心がないがしろになり、忘れさられてしまっています。
体力のある人、丈夫な体の人のみが健康であるように見られがちですが、本当に健康な人とは、身も心もそろってこそ健康な人と言えるのではないでしょうか。

健体は、スポーツや運動などで培うことが出来ます。もう一方の康心は、仏様の教えである、貪りの心、怒りの心、愚かさの心を自分自身がコントロールすることによって養い育てる事が出来るのです。
そのひとつの手立てが坐禅であり、曹洞宗の教えの目指すところであります。

スポーツの秋にむかうこの季節、丈夫な体、体力作りと同じように康らかな心、康心作りにも心がけ、努めていきたいものであります。
それでは、今日も一日皆様方が健康で過ごせますように。合掌。


長万部町 大円寺
寺田 伸龍さん


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2016年8月27日放送「変わらぬこと」

3月26日、ついに北海道新幹線が開業いたしました。
「北海道と本州を陸路でつなぐ」という道民の長年の願いをのせた新幹線、胸を熱くした方も多いのではないでしょうか。
大変な話題となった新幹線事業、さらに新たに誕生した「新函館北斗駅」ですが、私のお寺はこの日本最北端の新幹線の駅から車で5分とかからない場所にあります。
この辺りは元々農家のお宅が多く、見渡すかぎり畑が広がる場所でした。しかし、一昨年あたりから駅の建設や道路の設備が進み、お参りの途中、見慣れた景色が日々変化していくのを感じておりました。

新幹線開業を一か月後に控えた2月、ある農家のおじいさんのお宅にお参りに伺った時のことです。
私が「新幹線が開業したら、この町はもっとにぎやかになるでしょうね。」というと、おじいさんは「農家の一年は春に種を蒔き、夏に育て、秋に収穫。冬は、次の春にむけてゆっくり休む。景色がどれだけ変わっても、私の生活は何ひとつ変わりませんよ。」と笑顔で話してくれました。
様々な意味で裕福になった現代においては、流行りものや便利なものについ目を奪われてしまいがちです。しかし、お釈迦様の「御教え」は時代や環境が変わっても、本質は何ひとつ変わらず、現代に生きる私たちにも脈々と受け継がれております。

夏が過ぎ、秋になると、おじいさんは収穫した野菜をおすそ分けしてくれます。
毎年変わらぬ方法で、丹精込めて育てられたおじいさんの野菜は、今年も変わることなく我が家の食卓を彩ってくれることでしょう。
「本当に大切なものの本質は、何があっても変わらない」
おじいさんに「変わらぬこと」の尊さを、あらためて気付かさせていただきました。


北斗市 円通寺
住山 瑛尚さん


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2016年8月20日放送「威儀即仏法 作法是宗旨(いいぎそくぶっぽう さほうこれしゅうし)」

私は愛媛県の瑞応寺という修行道場で修行を経験しました。修行道場の住職を堂頭(どうちょう)といいますが、堂頭和尚さんは日々の修行生活についてご指導下さいました。どこどこの掃除が行き届いていない、脱いだ履物がそろっていない、歩き方がだらしがないといったことです。そして「威儀即仏法 作法是宗旨(いいぎそくぶっぽう さほうこれしゅうし)日々油断なく過ごすように」と仰っていました。

この「威儀即仏法 作法是宗旨」という言葉は「日常生活の身なりや立ち居振る舞いは全て仏の道であり、これが曹洞宗の教えである」という意味です。

人の心は常に動いています。そしてその心の動きが身体の外に現れます。それは喜怒哀楽の感情が顔や動作に出るといったように、心と身体はお互い影響しあっているのです。
しかしお互い影響しあっているならば、逆に身体が心に影響を与えるということも考えられるでしょう。皆さんも汚れた部屋よりも整理整頓された部屋のほうが心落ち着くのではないでしょうか。日々の立ち居振る舞い即ち身体を整えることは、自らの心を整えることに繋がるのです。
そうであるから曹洞宗の開祖道元禅師は日々の修行生活を細かく定め、その大切さを説かれました。この教えは後に「威儀即仏法 作法是宗旨」といわれるようになったのです。

これは修行道場だけではなく、日常の私たちの生活でも同じことがいえます。私たちの日常生活のほんの少しの立ち居振る舞いの心がけで、心も体もともに整えられ落ち着いた生活ができるようになるでしょう。


函館市 大貫寺
長澤 隆光さん


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2016年8月13日放送「あなたの帰る場所」

なぜ、お仏壇の前で手を合わせるのでしょう。
  なぜ、お墓に花を手向けるのでしょう。

お盆はご先祖様が帰ってくる日です。
人は亡くなって長い旅路に出られるといいます。その旅がさみしくないように、生前の思い出をたくさんもたせてあげてくださいね、とお通夜の席でも聴いたことがあるかもしれません。

では、旅とは何なのでしょう。
作家の池澤夏樹さんは、「自分が旅だと思って一歩踏み出した時から旅は始まる」と言います。近くのスーパーへ行くにも、お母さんからすればただの買い物、3歳の子にしてみれば、スーパーに一人で行くことですら冒険となるように、目的地がどこであれ自分が旅と思った瞬間から、その歩みは旅となります。
そして旅にはもう一つ条件があります。
それは、帰る場所があるということ。
帰る場所のない旅は、それは放浪となってしまいます。
放浪は常に不安と恐怖とがつきまといます。

今は亡き人が帰る場所は、ご自宅のお仏壇であり、お墓であり、そしてお寺です。つまり、あなたが手を合わせて祈る場所、そこが亡き人の帰る場所。私たちが花を手向け、香りを焚き荘厳し、手を合わせお経をお唱えする時、そこが帰る場所となり、ご先祖様は安心するのです。

そして、そこは亡き人やご先祖様の帰る場所ばかりでなく、手を合わせているあなた自身の帰る場所でもあります。ご先祖様を供養するとき、なんだか安心な気持ちになるのは、そこがあなたの帰る場所であり、ご家族や、ご近所の方、遠いご友人、すべてのご縁によって生かされているあなた自身のいのちに気づく場所だからなのです。


北斗市 広徳寺
高橋 正英さん


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2016年8月6日放送「時を経て頂く教え」

平成十六年七月十六日、師匠である父がこの日亡くなり、今年で十三回忌を迎えました。
今から十二年前、師匠が亡くなった時、私はまだ大学生でした。卒業後、二年間の修行を経て副住職となり、二十九歳の時、住職に就任致しました。
住職になり六年が経ちますが、今でも師匠が最後に私に残した言葉が胸に深く刻まれています。

その最後の言葉は「いいか。手八丁口八丁の坊さんにはなるなよ。一生懸命勉強して有難い坊さんになってくれよ。お寺を頼んだぞ。」と言い息を引き取りました。
それからの今までの時間、その言葉を胸に抱き歩んで来ました。まだまだ師匠の思いに叶う事は出来ていませんが、その言葉が私の心の支えであり目標なのです。
もう二度と師匠に会う事も、声を聞く事も出来ませんが、私は今でも師匠と共に歩み生きているのです。

禅語で「以心伝心」という言葉があります。意味は、文字や言葉を使わなくてもお互いの心と心で通じ合う事。師から弟子に心から心に伝える、佛の教えを正しく伝える事を意味します。
たとえこの世に生が無くなっても、ただ、ただ真っ直ぐ素直に心を見つめると、そこには必ず師匠の教えが私の心に聴こえてくるのです。

悩み苦しい時こそ、自分本位になるのではなく、師匠ならどういう答えを導き出すのだろうかと向き合うのです。
師匠と向き合う事は仏様と向き合う事です。身も心も素直に向き合う事が以心伝心なのです。
皆さんには、そのような方はいらっしゃいますか?家族でも、御先祖様でも、友人でも結構なことです。
今一度、心をもって心で伝えてみて下さい。必ずそこには、正しき道へと導く光を照らしてくれるでしょう。


七飯町 光現寺
星見 拓禅さん


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2016年7月30日放送「命」

今、世界では飢えに苦しむ人達が後を絶ちません。
ここ、日本も例外ではないのでしょうが、恵まれている方ではないでしょうか?

私達は日常、当り前の様に食べ物を口にしております。
それは生きて行く上で必要不可欠だからです。

好きなものを食べたい時に食べる。
今日、深夜であっても外に出れば安全かつ衛生的な食べ物が簡単に手に入る世の中でございます。
しかし、簡単に手に入るあまり、食に対して感謝の心が薄れているようにも思われます。

お釈迦さまは、この様に言われております。
『人間は生きて行くのに食べ物を食べなくてはいけない、しかし、食べ物は皆命有るものだ、だから必要以上食べてはいけない、必要以上食べるという事は必要以上殺すという事だ、食べ過ぎてはいけない』と教えられたのです。

お米や野菜に命が有る事と魚や動物に命が有るという事とは、なんの違いもないのです。
命は命なのです。
私達は他の命を頂かなければ生きて行けないのですから、本来食べる時に何が良くて何が悪いなどということは仏教の教えには無いのです、すべて平等なのですから
『あなたの命をいただきます』という感謝の気持ちを忘れてはいけないのです。

日々、当り前に食べている物の中に命が有るという事を、あらためて思い返してみては如何でしょう。


新篠津村 光明寺
藤原 和宏さん


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2016年7月23日放送「供養」

早いもので7月下旬となりました。この頃になると、住職さんがお盆参りに来られる、というご家庭も多いのではないでしょうか。

先祖供養とか追善供養、といった言葉がございます。この「供養」という言葉。漢字で書けば、「供える」に「養う」と書きます。

「供える」とは、お花やお水、お菓子や果物、また亡くなられた方がお好きだった物をお供えする、というだけではありません。それらによって、皆様のお気持ちをお供えするということが大切なのです。

そしてもう一つの「養う」とは、心を供えることで自分自身の心を養う、という意味になります。

夏休みは、遠方のご家族が帰省されてご親戚が久しぶりに集まる機会です。皆さんでお寺やお墓で手を合わされるかと思います。

手を合わせる、この「合掌」というのは、「感謝」の姿、「ありがとうございます」の姿です。

食事の際には手を合わせ「いただきます」「ごちそうさまでした」と言います。野菜や動物を育てた人、各地に食材を運ぶ人、料理をする人。沢山の人の手があったからこそ目の前の料理があります。感謝の気持ちで手を合わせるのです。

お寺やお墓でも同じです。ご先祖様がいなければ今の自分はありません。家族や友達との様々な出会い巡り合わせも、全てありません。感謝の気持ちをお供えする姿が「合掌」なのでしょう。

「供える」という漢字は、「人と共に」とも読めます。つまり「供養」とは「人と共に皆の心を養う」ということです。手を合わせることによって、それぞれのお気持ちをお供えし、皆さんの真心を養う切っ掛けにしていただきたいと思います。


鹿追町 向岳寺
小原 輝昭さん


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2016年7月16日放送「知恩・感恩・報恩」

恩返し、恩知らず、恩に着る、恩を売る、などなど、恩にまつわる言葉が多く存在いたします。この恩という字を漢字の造りから紐解いていきますと、上の因という字は敷物の上に人が寝ている、その敷物は常に使用し親しむものであるから、因という字に心を添えた恩という字は「いつくしむ」という意味になり、愛情を受けるという意味になるそうです。

そもそもこの恩とは古くから「恵」という意味で用いられていました。仏教では自分が恩を受けていることを知り、そのことに感謝し、その恩に報いること、知恩・感恩・報恩の重要さを説いております。

まず自分がどれだけの恵みを受けているのかということを知ること。今自分が生きていられるのはどれだけの方々のお陰なのか、様々な恩を知ることで自然と感謝の念が湧いてきます。そしてその恩、恵みに感謝の念が沸き起こったならば、社会や人々に対して自らが恵みを施そうということです。これが仏教の目指すところです。

道元禅師は日常の様々な行いが仏法にかなえば、それがそのまま報恩の行いになる。正しい行いを日々続けていくことが報恩の行いであると示されました。正しい行いを日々続けていくということが恩に報いるということになるのです。

受けた恩を知り感謝しそして施す。その日々の繰り返しですべてがつながっていくのです。くれぐれも恩を仇で返すことだけはなさいませんように。


岩見沢市 孝禅寺
安彦 智峰さん


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2016年7月9日放送「利行」

熊本県を中心に甚大な被害をもたらした地震から3ヶ月が過ぎようといています。犠牲となられた方々のご冥福を衷心よりお祈りいたしますとともに、被災された皆さまが1日も早く元の生活に戻られますことを祈念申し上げます。

災害発生直後から、地元九州の青年僧侶たちを中心として全国からも多くの僧侶が現地に入り、避難所で炊き出しを行いました。東日本大震災での経験から炊き出し機材を持つお寺が多い事もあり、僧侶たちが数百食の炊き出しを連日振る舞う姿がSNSに投稿され、その奮闘ぶりが伝わってきました。

実は、僧侶が被災地で積極的に支援活動を行うということ自体が、海外の仏教徒の目から見ると大変珍しいことであり、また日本の僧侶が称賛される点であるとお聞きしたことがあります。

私たち曹洞宗の道元さまは著書の中で、「利行」人のためになる行いの重要性を説かれています。自分と相手、お互いが敬いあう対等な立場での施し、思いやり。相手のためを思ってする行いは、同時に自らも安らぎを得るものであるとお示しになっています。

災害復興支援以外の分野でも、曹洞宗の僧侶には保護士や民生委員など様ざまなボランティア活動に取り組んでいらっしゃる方がいますが、私たちを社会活動に駆り立てるのは、「それがとりもなおさず仏道修行であり、自他の心の安らぎとなるのである」との道元さまの教えを受け継いでいるからなのです。


帯広市 永祥寺
織田 秀道さん


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2016年7月2日放送「脚下照願(きゃっかしょうこ)」

早くも今年も半年が過ぎ、少しずつ太陽の沈むのが遅くなるのを見て、夏の季節の訪れを感じています。夏に備え、皆様も夏物の服や履き物などを出す頃かと思います。履き物は我々の生活に欠かす事の出来ないものです。そこで今回は履き物にちなんで、皆様に「脚下照願(きゃっかしょうこ)」という言葉をご紹介したいと思います。

お寺の玄関などでこの言葉を見かけた方もいるかと思います。脚下は自分の足元、照願は自分の行いを振り返り反省するという意味があります。すなわち、履き物をそろえる時に、自分自身を見つめなおそうということです。

永平寺では、どんなに急いでいる時でも、自分の履くスリッパを綺麗に揃えて脱がないと、先輩の和尚さんからご注意を受けてしまいます。仏道を成ずる為に修行する中で、最も身近な自分の足元を見る事を忘れ、乱してはならないのです。それは修行以前に自分がどういう人間なのかをわかっていないという事になってしまうからです。

大本山永平寺78世宮崎奕保禅師さまは坐禅の際、例えそれが修行に来たばかりの雲水のものであっても、スリッパが乱れていれば自らそれを揃えたそうです。禅師さまは、スリッパを揃えればスリッパが、お線香をまっすぐに直せばお線香が「成仏した」とおっしゃったと聞いています。私はこれを「揃える事や直す事は、その物が、その物の在るように成った」ということだと思っています。

今の人々は時間に追われ、毎日を忙しく過ごしている事が多いように感じます。だからこそ、履き物を脱いだ時に、この言葉を思い出して自分自身をもう一度見つめなおしてほしいと思います。


新ひだか町 禅祥寺
渡辺 邦顕さん


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2016年6月25日放送「華」

私の住んでいるえりも岬は日本有数の強風地帯と言われていますが、吹き渡る風にもようやく夏めいた気配を感じるころとなりました。
この様な季節の変わり目を感じる折に、改めてお寺の境内を見回してみると、春に見事な花を咲かせていた梅の木に、小さな実が成っているのを見つけることができました。移り変わる樹木や花々の様子は、自然の神秘を思い起こさせてくれます。

私達は佛様への御供養の為、更には佛前の荘厳の為に華を供えています。特に本堂やお仏壇、お墓に華を欠かすことはできません。
しかしながら、この華は佛様の為だけであったのならば、華の向きは佛様の方を向いている筈なのですが、拝む私たちの方を向いています。それは拝む佛様の徳の象徴が華であること、拝む私達も本来佛様であり、佛性という華であるからです。拝んでいる自分も、また拝まれている佛様も等しく荘厳される尊い存在であるからこそ華はこちら側を向いているのです。

さて佛教を代表とする華といえば蓮華を表します。蓮華が仏教に於いて大切にされているのは、その特徴が佛法の尊さに似ているからとされています。
その特徴とは泥の中から茎が伸びていて汚れを受けない。常に清らかな姿である。葉っぱの上の雨水が白い宝玉の様である。美しい大輪の花が佛法の光明の如きである。といった点が挙げられます。

七月を迎えると蓮が花を咲かせ始めます。
現代は悩み多き時代であり、人によってはまるで泥の中と思える様な社会です。しかしそれでも「佛様に向かって拝む私達の姿は蓮の様に美しく尊いものである」そう思い起こして共に歩みたいものであります。


えりも町 法光寺
佐野 隆也さん


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2016年6月18日放送「縁」

人との繋がり、縁についてお話ししたいと思います。

私達は映画を観たり本を買って読んだりする対価にお金を支払いますが、例えば、友人と付き合うとき、友人と付き合うことそれ自体にお金を払ったりはしません。
もちろん付き合う上である程度の支出はあります。でもそれは友人と付き合うために支払うものではないので、根本的なものではありません。では友人と一緒にいることで何を差し出しているのかというと、それは自分自身だと思います。

そして自分自身を差し出すということの最も大きなものの一つに、とても細かなものがあるんじゃないかと。
例えば友人を責める時、責める内容そのものも大事ですが、選ぶ言葉や口調や表情、目や場所、その他諸々の細部によってもその友人を責めることになります。そして友人が責められた内容をどう受け取るかは、責めた私の細部から大きく影響を受けます。
細部というのは決して小さいという事ではありません。その細かい部分には自分がどう生きているか、どう生きてきたかが顕れやすいような気がします。

また、自分自身を差し出すといっても、そこに見返りを求めることは多くの場合、不粋であったり不毛であったりします。もしも差し出し方が正当なものであったなら、その見返りはむしろ自然と身の内から湧き出てくるものではないでしょうか。

それは自分のことを考える時にも通じることだと思います。私達は生きることで多くの苦悩を抱え、ささやかな喜びと付き合うことになります。そんな自分と向き合ってみた時、その中には自ずから御先祖様が顔を出してくれるはずです。

私の御先祖様はお年玉をくれたりはしませんが、ふと来たと思うと静かな温かさを残していきます。

皆さまの御先祖様も、おそらくちょっと温かいのではないでしょうか?


赤平市 大祥寺
中堀 俊洪さん


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2016年6月11日放送「移り変わる」

ご存知の方も多いと思いますが、仏教には諸行無常という言葉があります。あらゆるものは移り変わっていくよ。という意味です。
冬に降り積もった雪も、いつか解けて水となり、川となり、海へと流れて、やがて蒸発して水蒸気となる。そうしてまた、雲となり、雨や雪となる。

今その辺で咲いている花も、やがて必ず散るように、私たちのこの肉体も、やがては、必ず滅びてゆきます。
明日にはこの肉体、もしくは大切な人の肉体も滅びるかもしれない。私達もこの瞬間瞬間に移り変わっているのです。

ですから、いつか伝えるのではなくて今、伝えるべき事は伝えておく。いつか謝るのではなくて、今謝っておく。いつかありがとうと伝えるのではなく、今、ありがとうと伝えておく。

もしも諸行無常ではなかったら、小学生は小学生のまんま、中学生は中学生のまま、怪我をしたら怪我をしたまんまになります。成長するのも、怪我が治っていくのも、諸行無常だからこそなのです。

同じように、心の状態も移り変わっております。

だから今、苦しい思い、悲しい思い、辛い思いをしていても、大丈夫。
それがずーっと続くわけではない。
その思いは、必ず移り変わって和らいでゆきます。

ありとあらゆるものは、この瞬間瞬間に移り変わっている。
このことに気付いていることで、もっと楽に生きてゆけることと思います。


札幌市 峯光寺
小野 隆見さん


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2016年6月4日放送「仏の顔も三度まで」

皆様はこんな言葉を聞いたことはあるでしょうか。
「仏の顔も、三度まで」。誰もが一度は耳にしたことのあるであろうこの言葉。大元の表現は「仏の顔も三度なづれば腹立つる」だそうです。普段どんなに優しくて、穏やかで、滅多に腹など立てないような人でも、道理に合わない無法無体を重ねられれば、仕舞には怒り出すよ、という意味合いになり、無礼をした結果までがしっかりと表現されています。

さてこの言葉ができた由来ですが、お釈迦様の時代、2500年前のインドに、釈迦国という小さな国と、とても強大なコーサラ国という二つの国がありました。 コーサラ国王は仏教を信仰していました。
ある日その若い王は、自分の母親はもとは由緒ある釈迦国の王女だったという事を聞かされていたのに、実は身分の高くない女性で、それが釈迦国の策略だったことを知り、怒りで一杯になったといいます。
そして王は兵隊を集め、釈迦国を滅ぼそうと4回出陣します。三回まではお釈迦様の話を聞き入れ兵を引き返しましたが、どうしても腹の虫が治まらなかった王は、ついに4回目の出兵で釈迦国に乗り込み、一国を滅ぼしてしまいます。
しかしその帰りの道中、王たちは川で暴風雨に見舞われ、命を落とすこととなってしまいました。 このようなお話に由来し、さきの言葉ができたと言われています。

王の行動がそのまま仏様の顔を撫でるような無礼千万な行為に当たるとは一概には言えません。嘘をついた釈迦国にも非はあります。しかし唯一無二の母であることには違いないのに、その出生に拘りすぎてしまい、お釈迦様の再三のおさとしを無碍にしてしまった王の行為の結末が、川で命を落とすという結果になるのです。
因果応報。自分のしたことの善悪に応じて、その報いがあるよ、というお釈迦様の教えにつながる言葉でしょう。


富良野市 大仙寺
児島 龍憲さん


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2016年5月28日放送「供養」

今回、お話しを致しますのは、ご供養についてであります。

皆様、よく耳にされる言葉かと存じます。しかしながら、皆様は日々しっかりとご供養出来ていますでしょうか。そもそも、何故ご供養をするのか。ご供養とは何か。

一つの答えとして、私はそれを感謝の気持ちの表れであるとお伝えしたいのです。仏様にご供養をする時、ご先祖様や親しかった方々へご供養をする時、最も大切なことは相手への感謝であります。
どんなにありがたいお経をお唱えしても、どんなに高価な供物をお供えしても、そこに感謝の気持ちが無ければそれは決して良いご供養とは言えないのであります。

私たちは誰しも一人きりで生きている訳では御座いません。自分を生んで頂いた両親、沢山のご先祖様、友人や知人、世間や社会、そして仏様。私たちは無数の御縁によってこの命を生かさせて頂いている、また、私たちは知らず知らずの内に誰かを御縁によって助けながらお互いを生きているのであります。
そんな有難い命を繋いできたご先祖様へ、尊いみ教えを私たちに伝えて頂いている仏様へ感謝をすること、それがまさにご供養なのであります。
皆様、どうぞお仏壇、お墓、お寺のご本尊様へのお手を合わせる時には、感謝の気持ちをしっかりとお供えしてお参りご供養して頂ければと思う次第であります。

今回はご供養のお話しでありました。


上川郡剣淵町 神龍寺
松井 大紘さん


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2016年5月21日放送「挨・拶」

会話を始める時は、様々な場面や状況で「挨拶」という言葉が欠かさず存在し、その後から会話というものが始まります。特別に感じるものではないのですが、人との関わりの第一歩として、挨拶とはとても重要な役割を担っている言葉でもあります。

しかしながら挨拶を行う上で、込められた気持ちが必ずしも同じものではないことがあります。相手が年上や年下、立場の違い等の事柄から、その人に対する気持ちや言葉の質というものが変わり、会話を行う前の段階から相手との気持ちに「差」が生じている事が隠れずに解ってしまう程です。

この挨拶というものは実は、禅に由来する言葉でもあります。

挨拶の挨とは「勢いよく押す」こと。

挨拶の拶とは「迫る、切り返す」こと。

挨拶とは、この二つの意味を組み合わせであり、これは修行僧が問答を行じている動作を示しているものです。

疑問を持つ者は「押しだす」ように問い、答える者も「圧迫し、切り返す」ように答えます。問答は目上の方に対しても行われ、時には鬼気迫る勢いでぶつかり合う程であり、お互いに生半可な気持ちで問答は行っておりません。

世の中は諸行無常の故、常に物事が移り変わり「差」というものが存在してしまいます。

その中で、挨拶というとても簡単なやり取りでは、分け隔てない関係であり、原初にあった対等に接する気持ちというものが、挨拶を通じて築かれてゆく事を切に願うばかりでございます。


美唄市 禅昌寺
荻野 喬弘さん


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2016年5月14日放送「唯我独尊」

毎年四月八日はお釈迦様の御生誕をお祝いする、花まつりという仏教行事があります。花見堂を飾り、右手で天を、左手で地を指さす釈迦像をお祀りして、そこに甘茶をかけて御生誕をお祝いします。 お釈迦様はお生まれになってすぐに七歩歩いて、天と地を指さし「天上天下唯我独尊」と仰ったと言われています。

天から地に至るまで、つまりこの世の全ての中で自分という人間は、たった一人しかいない。とても尊い存在だということです。もちろん、自分一人が尊いという訳ではありません。他の人も他のものも、この世に存在する全ての人、全てのものはたった一人、たったひとつしかなく、自分と同様に尊いと言っているのです。

最近のニュースや新聞を見てみると、理不尽な理由だったり、色々な苦しみが原因で様々な悲しい事件が多く見られる様に感じます。私たちの存在が「唯我独尊」であることと同様に、自分の人生はたったの一度きりで、この世に生まれたからには、たとえ嫌だとしても誰しもが死を迎えます。
また、この命がいつ終わるかは誰にも知ることは出来ません。その人生を楽しく過ごす事はとても大切なことだと思います。
ただ、悲しいニュースが多いこの世知辛い世の中だからこそ、自も他もたった一人しかいない尊い存在であると再認識して、皆さん、お一人お一人が手と手を取り合い、助け合い、日々を過ごして頂きたいと切に願うばかりです。


石狩市 豊隆寺
白井 侑道さん


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2016年5月7日放送「布施行について」

皆様は人になにかしてあげたとき、どのような気持ちになりますか?図らずも、なにかをしてくれたことに対してのお礼や感謝の気持ち、「ありがとう」の一言といった、見返りを期待してはいないでしょうか?

道元禅師は「布施というはむさぼらざるなり」、さらには「むさぼらずというはへつらわざるなり」とおっしゃいました。これは人に何かをしてあげるとき、見返りを期待せず、自己満足せず、純粋になにかをしてあげなくてはならない。見返りはあくまで結果であって、期待するものではないということです。

私たちが生きる社会では、モノやサービスが溢れています。私たちはお金という手段を用いて、その対価を支払い、それらを受け取ります。そのような状況下で暮らしている私たちは、なにかをしてあげればなにかをしてもらえる、感謝されるといった、見返りを期待した気持ちになりがちではないでしょうか?なにかをしてあげたとき、期待通りの結果が返ってこないと「してやったのに」と思うことはないでしょうか?見返りを期待する気持ちには、必ずといっていいほど「自分」を中心とした執着という面がみられます。言い換えれば「自分」を優先にして、人になにかをしてあげたに過ぎません。

私たちは今一度、道元禅師の「布施」に対するお言葉に立ち返って、人になにかをするときには「自分」に執着した見返りを期待せず、誠心誠意・相手のことを考え、気持ちを込めて人になにかをするよう努めるべきではないでしょうか。


札幌市 薬師寺
小林 良浩さん


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2016年4月30日放送「坐禅」

本日は、今までこのラジオでも何度もでてきました、坐禅というものをみなさんと一緒に体験したいと思います。
大切な事は、思いを手放して、何も考えないということです。
残り時間が二分程ですので早速始めさせていただきます。

まずはその場で姿勢を正し、鐘の音に注意を向けます。(鐘鳴らす)。

目線は自然に斜め下へ落とします。『見る』のではなくて『見えている』というような、そういった感覚で。

そうして今度は呼吸に意識を向けます。

鼻から息を吸って、お腹が膨らんで、息を吐いてお腹がへこんでいく。

空気が入ってくる時、身体のどこがどう動いているか、空気が出ていく時、どこがどう動いているのか。
今この瞬間に生じている身体の感覚に気付いていきます。

途中で何か思いが生じてくるかもしれません。過去や未来のことを考えてしまっていることに気付いた時は、また呼吸に戻ってきましょう。

(鐘鳴らす)

はい、終了です。
何も考えない時間を大切にして今日も一日、ゆったりとした心で、お過ごし下さい。


札幌市 峯光寺
小野 隆見さん


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2016年4月23日放送「こども論語塾」

毎月の第三土曜日になりますと、私がお務めさせて頂いているお寺であります北大寺を会場として「寺子屋・こども論語塾」が行なわれております。

この「寺子屋・こども論語塾」とは、北海高等学校に四十年間勤務された、新田修先生が中心となり平成二十二年十二月に開塾された、いわば現代風の寺子屋です。

新田先生をはじめ、世話人の方々の御尽力、又、塾生の皆さんの熱意により、開塾当時は二十名程だった塾生も、今では大人の塾生を含め四十四名になりました。
その他にも保護者の方々も積極的に参加されている為「こども論語塾」がある日は毎回本堂が人でいっぱいになります。

はじめの三十分、坐禅を組んで精神を集中した後、一時間論語に親しむといった構成になっており、私は開塾当時から坐禅指導のお手伝いをさせて頂いております。
塾生は、小中学生を中心に、下は4歳の小さな子供から、上は85歳の大人の方まで、とても幅広い世代に渡ります。
その皆様が同じ作法、同じ合図のもと、一度に坐禅を開始します。小さな子供には少し難しい様ですが、それでも一生懸命に坐っています。
小学校低学年くらいになると、はじめは落ち着きのなかった子供達も回数を重ねるたび、序々に集中して坐る様になります。そこには年齢、世代に関係なく、全体として一つの坐禅の鎮まった空気が生まれます。
坐禅指導を通じて、改めて坐禅の素晴しさを実感する瞬間です。

この様な機会をくださった「寺子屋・こども論語塾」の皆様に感謝すると共に、皆様にとって少しでも良い経験にしていただければと願う次第であります。


札幌市 北大寺
大波 奨躍さん


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2016年4月16日放送「梅」

北国の長い冬も終わりを告げ、日々強くなる日差しに春の訪れを感じる今日この頃です。
本州と比較して、およそ1ケ月遅れての春の訪れです。日本の春の象徴的な花と言えば、梅ですね。「梅は百花にさきがけて咲く」と言われ、春到来を告げる花ですが、北海道では4月下旬あたりから、桜とほぼ同時に咲き始めます。

梅は寒い冬の間じっと耐えて、まだあたりが肌寒くても、しっかりと可憐な花を咲かせます。その梅の花の香りは、本当に心が洗われるような清らかさがありますね。

「梅は寒苦を経て、清香を発す」と言う言葉があります。

私たちの人生も同じです。苦しい時、辛い時だからこそ、その経験を自分の養分とするくらいの気持ちで受け止め、乗り越えましょう。厳しい試練、厳しい困難こそが私たちを鍛え上げ、人徳を磨くのです。

どんなに冬が長くても。どんなに冬が寒くても。必ず春は訪れます。春が来ない冬はないのです。

さあ、あなたの春を探してみませんか。


札幌市 大宥寺
吉田 圭孝さん


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2016年4月9日放送「水鳥」

世の中は 何にたとへん水鳥の はしふる露に やどる月影

水鳥のゆくもかえるも跡たえて されども道はわすれざりけり

長かった冬も終わり、春の訪れとともに渡り鳥が飛来する季節となりました。雪解け間もない田畑や水面に、オオハクチョウやマガンの群れが羽を休めております。
北海道は渡り鳥たちにとって重要な中継地点だそうで、ちょうどこの時期は、本州からシベリアへ約4千キロもの旅路の途中に、しばし羽を休めるのだそうです。

その姿を見ていると、冒頭に詠みました道元禅師の和歌を思い浮かべます。

世の中は 何にたとへん水鳥の はしふる露に やどる月影

世の中は水鳥が嘴(くちばし)を振った時に散る水の滴のように、はかないものであります。しかしそうであるけれども、その一滴のはかない命の中にも、尊く光り輝くものを宿らせていかなければならない。そしてもう一首、

水鳥のゆくもかえるも跡たえて されども道はわすれざりけり

あたかも道があるかのように飛び、泳いでいる水鳥たちですが、その後には何も残っておりません。余計なことにとらわれずに、ただ正しい道を進んでゆく。

道元禅師も同じような風景をご覧になっていたのでしょうか。今も昔も変わらない露の如くはかない命ではありますが、少しでも何かを照らしながら、精一杯正しく生きてまいりたいものであります。


岩見沢市 孝禅寺
安彦 智峰さん


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2016年4月2日放送「利行」

四月になりました。入学式の季節です。私が小学校に入学したのは昭和42年、今から四十九年も前のことです。 当時、カラー写真はまだ珍しい時代。私の人生初のカラー写真が、この時の入学式の写真でした。この写真、時の校長先生が撮ってくださったものでした。

尻別川水系の昆布川の畔にある、昆布小学校の当時の高山校長先生は、入学児童全員の各々の写真を撮影し、新入生にプレゼントされていたようであります。
今では、スマホやデジカメ、携帯などで、数えきれない程の写真を撮り、保存することができます。その分、写真の貴重さがなくなっているようにも思われます。
しかし、よく考えてみると、それら無数の写真一枚一枚に、自分の記憶を補完する役割があるのです。

カラー写真がまだ珍しかった時代、私費を投じて子供たちのために写真をとって下さった、高山校長先生の志の高さに敬意と感謝を述べるばかりです。当時、共に入学した仲間たちに会うこともありませんが、皆、同じ思いで写真を見ているに違いありません。

今、あらためてわが身を振り返ってみて、人さまに感謝されるようなことを何一つしていないことを、恥じるばかりであります。

人のため、を思っての行いを利行といいます。道元禅師のおことばに「利行は一法なり、あまねく自他を利するなり」とあります。人のためを思っての行いは、結局、人の心も自分の心をも豊かにするものです。

心ゆたかに暮らしてまいりたいものであります。


札幌市 真龍寺
飯田 整治さん


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2016年3月26日放送「幹」

みなさん、どんな朝を迎えられたでしょうか、今日、3月26日は北海道新幹線が新青森〜新函館北斗間で開業します。多くの方々が待ち望んだ、この北海道新幹線開業によって、北海道と本州、特に関東・東北地方との間を移動する方々の利便性が大幅に向上することでしょう。

さて、新幹線の「幹」は【みき】です。【木の幹】や【物事の主要な部分】という意味です。わたしはかつて次のような川柳に出会いました…『われはみき・せんぞは根っこ・子はえだは』…この川柳は自らを木の幹と例えた場合、木の根というのはご先祖様、枝葉は子や孫である…という心を詠ったのではないでしょうか。
木の根っこは、われわれ普段は見ることはできません。ですが、しっかりと幹を支え、そして、その支えられた幹から枝葉が生まれ、広がりと、繋がりが生まれます。

彼岸を過ぎ、北海道ではようやく春の息吹を感じる事の出来る季節となります。野山の木々も芽吹き、緑の枝葉をつけることでしょう。その枝葉の先には幹があり、さらに基には根があります。そして、我々の基にもご先祖様があり、きっと幹である自らを支えていてくれるにちがいありません。

根をおろそかにし枯らしてしまっては、幹も枯れ、枝葉も茂ることはありません。手を合わせ、合掌し、仏を拝し、先祖を敬うという日常の生活があってこそ、代々受け継がれてきた「いのち」の大切さが解り、人に対し、また物に対しての報恩感謝の心、仏心が育つと信じ合掌ある日々を送りたいものです。


札幌市東区 大覚寺
荒木 道宗さん


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2016年3月19日放送「梅の花」

月日の過ぎるのは早いもので、明日はもう彼岸の中日です。
よく「暑さ寒さも彼岸まで」と申します。本州などからはすでに花の便りも届いている様ですが、私共が暮らす北海道では、本格的な春はまだまだこれからの様です。

私のお寺は札幌市の北の端にあり、毎年、市内中心部の倍ぐらいの雪が降り積もります。今年も、私を含めた地域の人達は冬の間の連日の雪かきにウンザリでした。

私は毎年思っています。冬なんか来なければいいのにと。しかし一方で厳しい冬を乗り越えたこの時期に私が毎年考えることもあります。それは、冬は雪も多く、寒さも厳しいこの北海道に住む私達には自然と他を思いやる気持ちが育まれているのではないかという事です。
誰かに頼まれた訳でもないのに、自主的に町内のゴミステーションの除雪をする人。夏に比らべて、狭くなった道路で「お先にどうぞ」と道を譲り合うドライバー。私は今年の冬も、こうした多くの他を思いやる心を持つ人達を見て来ました。

私共の曹洞宗を開かれた道元禅師は『永平広録(えいへいこうろく)』という書物の中で、「厳しい冬の寒さを過ごし、乗り越えるからこそ、梅の花は春が来ると美しく、そして香り高く咲く事が出来るのである。」とお示しになっています。
私達、人間も同じなのだと思います。

北国北海道の厳しい冬の暮らしの中で育み、養って来た人を思いやる心を私達は大切にし、梅の花の様に美しく、そして香り高く咲かせて行かなければならないのです。

皆様方も、これから本格的にやって来る、暖かな春に向かって人を思いやる心を増々育んで頂き、毎日をアクティブに過ごして頂きたいと思っております。


札幌市 常禅寺
目黒 全章さん


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2016年3月12日放送「天地宇宙の真理」

三月も中旬になりますと日差しもいっそう強く感じられ雪解けも進みます。皆さんもご苦労が多かった長い冬からようやく解放されることに安堵していることと思います。

重労働の雪かきや、厳しい寒さに耐えることは誰もが嫌がりますよね。それに比べて、春は良いなぁ 暖かくて住ごしやすいし、色々な花も咲いて最高でしょう。

でも冬にだって良い所、感謝すべき所がいっぱいあるんですよ。

皆さんに質問です。私達が毎日使用するトイレや飲み水、洗濯にお風呂等の生活用水はいったい何処から来るのでしょうか。

それは冬の間に多くの雪が降ってくれたお陰で水不足を心配することなく安心して生活できるのです。

山の降った雪解け水は、秋に落ち葉となった腐葉土の栄養を沢山いただいて川の水となり大地を潤し海へと流れて行き、美味しいお米や海産物のわかめに昆布、うにやあわび等、海を豊かにしてくれます。

私達は、その尊い自然の恵みを頂戴して生かさしていただいているのです。

気づくと気づかないとにかかわらず行なわれている天地宇宙の真理なのです。

自己中心的な自我の物差しを離れて、優しく時には厳しい春夏秋冬の中で笑顔と感謝の心で生きて行きましょう。


北広島市 龍仙寺
清水 常雄さん


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2016年3月5日放送「優しさのバトン」

私は僧侶になる前の大学生時代に、小学校で学童保育と呼ばれる放課後教室のお手伝いをさせていただきました。
これは心地良い春の日の出来事です。
満開の桜を前にして『春』をテーマにした工作をすることになりました。
それぞれ色付けをし、しばらく室内で乾かす為、上級生の女子生徒二人が代表して皆の作品をまとめて室内に運んでくれました。
しかし、女子生徒二人の不注意で転倒してしまい、運んでいた皆の作品を全て廊下に落としてしまったのです。
生徒たちが何時間もかけて作った作品でしたが、残念ながら破損してしまったものがほとんどです。
他の生徒がこの事実を知ってしまったら、この子達はみんなに責められてしまうかもしれない。
私はそんな不安にかられました。
しばらくすると、他の生徒らが心配をして二人がいる治療室へ来たのです。
「大丈夫かい?怪我はない?心配しなくていいからね!また一緒に作ろうね!」
子供たちから出てくる言葉は私の不安を吹き飛ばすくらいどれも純粋な愛のある言葉ばかりで、誰一人として二人を責める生徒はいなかったのです。
次の日、また同じ作品を仲良く作る子供たちの笑顔は、まるで満開の桜のようでした。

『愛語というは、衆生を見るに、まず慈愛の心を発(おこ)し、顧愛(こあい)の言語を施すなり』

これは曹洞宗の開祖である道元禅師様のお言葉です。
優しさの言葉、それが愛語。
年齢問わず、ほんのちょっとしたコミュニケーションで簡単に叶うものなのです。
ほんのすこしの優しさが大きなバトンとなり、そのバトンを相手に渡していくことが出来れば、自然と見えてくる景色はきっと清々しいものになるでしょう。


安平町 見龍寺
守屋 竜斗さん


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2016年2月27日放送「お菓子の取り合い」

最近のお話でありますが、お月参りにお伺いをさせて頂いていたお宅で、お参りが終わりお話をしていると幼い兄弟が一つのお菓子の取り合いを始めました。なんとも可愛らしい姿ではありましたが、本人たちは真剣そのものでした。
私も幼いときに男の三人兄弟でしたので、似たようなことでよく師匠である父に、相田みつをさんの詩を見せられながら怒られたことを思い出しました。
その詩は、「うばい合えば足らぬ、わけ合えばあまる」という詩です。この後にも続く詩があるのですが、色紙にはこの部分が書かれておりました。
欲を出してしまえば、どれだけものがあっても足りなくなり、他人の持っているものにまで目が行き争いになる。しかし、分け合い他者のことを想うことができたのならば、余るくらいのものがあったことに気付く。
言葉にすることは、とても簡単なことではありますが、実践するとなるとなかなかに難しいことです。

欲というものは、無くなるということはありません。ですが、足るということ知れば、自ずと欲というものは少なくなってゆきます。そして、多く得ていたものを他者と分かち合うことによって、その人たちを幸せにすることが出来たのならば、とても素晴らしいことだと私は考えます。


夕張市 遠明寺
加藤 佑生さん


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2016年2月20日放送「命」

父母も その父母もわが身なり われを愛せよ われを敬せよ

この言葉は農政家、思想家の二宮尊徳の教訓でありますが、私たちのご開山、道元禅師も同じ教えを残しています。

身心自らも愛すべし、自らも敬うべし

私たちひとり一人の命は、親、先祖から繋がってきた命のバトン。まさに生かされた命であります。この大切な命、尊い人間性を損ねないように、間違っても自らを貶めたり、傷つけてはいけない。私にしかありえない人間性を愛おしんで、敬い生きていきなさい。という教えであります。

命は取り出して見る事が出来ません。お仏壇の中にお釈迦様が描かれている軸や木像などは、私たちの命をあらわす象徴なのです。ですから「南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)」とお唱えするのも、実は自分自身の命へのよびかけ、誓いとも言えるわけです。

当たり前のように生きている私たちですが、その陰には、言葉では言い表せない程の親、先祖の苦労と大きな愛があったことであります。先祖が命をつなげ、私たちが命を受け継ぎ、今、生きているものだと気づかされます。

身心自らも愛すべし、自らも敬うべし


安平町 瑞雲寺
増坂 俊昭さん


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2016年2月13日放送「無常を感じるとき」

今日は、お釈迦様が示してくださった「諸行無常」について少しお話しを致します。「諸行無常」とは全ての事象は常に移り変わってゆき、その形をとどめることがないということです。私たちが無常を感じるときと言えば、肉親の死や、自らの体の衰えであったり、時代や社会の変化、また、季節の変化等が挙げられます。

他にも赤ちゃんが生まれること、成長すること、季節が進むことで花が咲くことも、無常の姿なのですが、どちらかといいますと望んだ現実から望まない現実へ向かったときの方が無常を感じるのではないでしょうか。「あの時ああすれば良かった、こうした方が良かったのではないか?」と変えることの出来ない過去にとらわれてしまい、私たちは現実から逃れよう逃れようとすること自体が苦しみを生む原因になっているのです。

変えられない現実は受け入れる外ないのです。現実をしっかり受け止め、そこからより良い道を見いだす努力が必要です。ご清聴有り難うございました。


夕張市 遠明寺
加藤 大機さん


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2016年2月6日放送「安心」

これは私が友人のTくんから聞いた話です。

ある日、Tくんの元に一本の電話が入りました。
『じいちゃんが危篤だからすぐ病院へ行ってくれ』
Tくんは急いで病院へ向かいました。

『じいちゃん!来たよ!』
病室にいるおじいちゃんは意識はあるものの不安そうな表情に憔悴しきった様子。

しばらくの沈黙のあと、Tくんは恐る恐るこんな質問をしてみました。
『じいちゃんさー。今、何か見える?』
するとじいちゃんは一言。
『…。母さん来てる…。』
『えーーー!ばあちゃん来てるのーー!?』
先立って亡くなったおばあちゃんが見えると言うのです。
すっかり驚いたTくんは更に質問を続けました。
『そしたらさー、お釈迦様とかそういった類の方とかはどう?』
するとおじいちゃんは
『…来てる。お釈迦さん見える…。』

Tくんはそれを聞いて安心し、こう言いました。
『そっかー。したらじいちゃんさ、死ぬの恐いかもしれないけどさ、お釈迦さまもいるし、ばあちゃんもいるし、実はちょっとだけ楽しみでしょ?』

するとさっきまで不安でいっぱいだったおじいちゃんの顔は、スッと穏やかな安心した顔になり、
『うん』
と静かに頷きました。
Tくんは最後にこう言いました。
『そっかー。俺、じいちゃん死んでもお線香もあげるし、ちゃんと弟と妹と一緒にお経も読むからさ、安心してね!』
おじいちゃんは少しだけ嬉しそうに頷きました。
そして数日後、おじいちゃんは静かに穏やかに息をひきとりました。

おじいちゃんはなぜ最期に嬉しそうな顔をしたのでしょう?
お線香やお経をあげてくれるからでしょうか?
恐らく全て含めて、これからも自分のことを思い出してくれるんだ、大事にしてくれるんだ、と安心したからではないかと、私は思います。
Tくんのおじいちゃんのご縁で今私も改めて亡き人を思い出し手を合わせます。


由仁町 常福寺
山川 大順さん


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2016年1月30日放送「命の尊さ」

近年、命の尊さを否定する、痛ましい事件が相次いでいます。苦しみや悲しみに直面したとき、私たちは生きる意味を考えることになります。
「生きるとはどういうことなのか?」「人生の目的とは何なのか?」

この難題にお釈迦様は「天上天下唯我独尊」という言葉で答えられています。
「天上天下唯我独尊」とは「この世で一番尊いものは、自分一人である」という意味であり、わかり易く申しますと、「自分という存在は、誰にも代わることのできない人間として生まれており、この命のまま尊い」という意味です。

日々、私たちが暮らしていく中で、様々な苦しみや悲しみを無くすことはできません。しかしながら、「生きていく中で、無駄なことなど全くない」「自分を支え、心配してくれる多くの人々と、多くの命がいつも見守っていてくれる」ということに気が付くと、苦しみは苦しみのまま、悲しみは悲しみのまま受け入れることができるかと思います。
私たちは一人で生きているのではなく、それぞれにとっての大切な命の支え合いをしながら、この命があるのではないでしょうか。

お釈迦様は亡くなる最後「この世は美しい、人の命は甘美なものだ」という言葉を残されました。これは悟りの心境であるのと同時に、懸命に人生を生きた言葉であるように思います。
どんなに辛くても、どんなに苦しくとも私たちは与えられた命を生きなければなりません。自分を支えてくれた亡き人に代わって、懸命に命を全うして欲しいという願いであるのと同時に、私が生きることを選んでいる人間だからであって、それ以上の理由はありません。


室蘭市 大善寺
有田 北斗さん


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2016年1月23日放送「誠意」

誠意を尽くすという言葉がございますが、誠意とは一体、誰のために尽くすものなのか、皆様方御存じでしょうか。誠意とは、他人様のために尽くす事、それが即ち誠意である。そのように思われている方も多いと存じます。恥ずかしながら、私もつい数年前までそのように思っておりました。

しかしながら、中国の古代の書物であります『大学』には「誠意」とは、自分を欺かない事であると書かれております。つまり、誠意とは、自分の気持ちを欺かない事であり、誠意の意とは、心という意味でありますが、心を誠にする、自分の心を誠にし、自分を欺かない、自分を偽らない、そのような心掛けで毎日を過ごすという事でございます。

さて、どのような事でも、過ぎるという事は肉体的にも精神的にも良くない事でありますが、私達は時として、もっと頑張る事ができるのに、これ位で良いかと自分の内なる声と妥協をし、自分自身を欺いてしまう事が多くあるのではないかと思います。

他人様のために尽くす事、ボランティア等がその一例でございますが、他人様に誠意を尽くすのは大事な事、尊い事でございますが、その前に、自分は日々の生活の中で、自分自身に誠意を尽くしているか、自分を欺いていないか、偽っていないか、そのような事を毎日の生活の中で今一度お考え頂く、自分自身を見つめ直す。そういった時間を持ちたいものでございます。

そのような場が御自宅にある御仏壇であり、御仏壇に向き合って頂く事、或いは、お寺に参って頂く事ではないかと存じます。


夕張市 錦楓寺
磯西 道由さん


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2016年1月16日放送「誰かの仕事で出来ている」

「世界は誰かの仕事で出来ている。」とある缶コーヒーの広告に、このような言葉がございました。様々な職業の男たちが缶コーヒーで喉をうるおし、一息ついている。その映像と「世界は誰かの仕事で出来ている」という言葉に共感を覚えた方も多いのではないでしょうか。
毎日額に汗して自分の持ち場を懸命に守っているあなたの姿を、私達はちゃんとわかっていますよ。そんな優しさがあふれるこの広告に「心を打たれた」また「この言葉をかみしめて仕事に励んでいる」というような反響があったそうです。

曹洞宗の大本山永平寺の大庫院(だいくいん)という建物の前には大きな擂り粉木(すりこぎ)が飾られております。雲水がこの擂り粉木を説明するときには

「身を削り 人に尽くさん擂り粉木の その味知れる 人ぞ尊し」

という歌の説明を致します。

擂り粉木に思いを込めて食事を作ってくれる人への感謝を歌ったうたですが「擂り粉木の有難さを分かる人が尊い」と言っているのが大切なところです。食事だけではなく広く「他の人の為に一生懸命に努力している人の苦労を感じ取り、そのことへの感謝の気持ちを持つ。そういう感謝の気持ちを持って日々生きている人は尊い」という事を教えてくれる歌なのです。

世の中を見れば、自分以外の誰が、どんな仕事をしているか、どんな一日を送っているか。わからないことだらけです。しかし、世界は確かに一人一人の人間の行いによって繋がり、形作られているのです。そのことが理解できれば今日という一日が変わるような気がしませんか。

今日も新しい一日が始まります。お仕事の方は今日も一日、がんばって!お休みの方は感謝の気持ちをもって清々しい一日をおすごしください。お目ざめに温かいコーヒーでもいかがですか?


伊達市 大雄寺
奥村 孝裕さん


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2016年1月9日放送「合掌」

昨今、合掌は仏事の作法と考える人が増えてきています。
しかしながら、本来の合掌の意味は感謝する心、敬う心、尊ぶ心を形として表したものなのです。

例えば食事のとき、手を合わせ「いただきます」、「ごちそうさまでした」という。この様な教えはどこのご家庭でも教わったことです。なぜ、食事の時に手を合わせるのでしょうか。

それは、食事を作って下さった方、また、その途中に沢山の人々の手を経て、今、目の前の食卓に上がるこの食べ物を頂くことができる。 その日、その時の栄養源となり一日元気に暮らすことができる。
そのことに素直に感謝をすることが「いただきます」、「ごちそうさまでした」と言う言葉につながってくるのではないでしょうか。

それではなぜ、亡くなった方々に手を合わせるのでしょうか。

この世に生を受くるには、必ず両親が必要です。
その両親にはそれぞれの親、そのまた親にもそれぞれの親がと、数限りなくその命の鎖は繋がっていきます。その多くの人が繋がりあってこそ、今の自分の生活が成り立っているのです。

その思いが、感謝する心、敬う心、尊ぶ心として亡くなった方々に手を合わせる動作に繋がっていくのです。

亡き人だけでなく、感謝する人にも、物にも素直に手を合わせられるように心がける事が、日常生活において大切なことなのではないでしょうか。


苫小牧市 中央院
荒澤 道範さん


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2016年1月2日放送「さる年」

昨年は、世界各地でテロ事件がおきました。人類にとって、平和な世界の実現は永遠の目標と言えるものです。

私たち曹洞宗の僧侶は、毎朝のおつとめで、世界の平和をいのり続けております。この祈りは、平和を愛した、お釈迦さま以来の伝統であります。
さらにまた、鎌倉時代の道元禅師さまは、福井県の山奥に、お寺をひらき、永久の平和を実現する寺、との願いをこめて「永平寺」と名付けられたと言われております。

さて、今年はさる年。猿といえば、日光東照宮の「見ざる・聞かざる・言わざる」のいわゆる三猿が有名です。諸々の説はありますが、この三猿は、インドの神話にその起源がある、とされています。

インドのマハトマ・ガンジーは、「悪を見るな・悪を聞くな・悪を言うな」の教えを意味する三猿のアクセサリーを常に持ち歩いていたそうです。

現代は様々な情報に満ちあふれています。たくさんの情報にふれることができるのは有り難いことです。しかし反面、最近、世界各地で頻発しているテロは、イスラム国から発信される情報を見聞きして、その影響を受けた若者によることが多いのも事実です。
私たちも、また、悪意ある情報を鵜呑みにしないような知識と教養を身につけてゆきたいものであります。

新しい、この一年が、皆様がたにとりまして幸多いものになることを心からお祈りいたします。南無釈迦牟尼仏


曹洞宗北海道管区教化センター 統監
藤原 重孝


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