法  話

HBCラジオ「曹洞宗の時間」(毎週土曜 午前6時15分〜6時19分)にて放送された、
北海道各地のご住職の法話を掲載しております。
また、実際にラジオで放送された音声データの配信も行っております。

ポッドキャスティング 配信データ

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12月 2015/12/26
「仏縁」

2015/12/19
「大掃除」

2015/12/12
「食事をいただく」

2015/12/5
「成道について」

 
11月 2015/11/28
「お地蔵さま」

2015/11/21
「やわらかなる容顔」

2015/11/14
「今」

   
10月 2015/10/31
「心は言葉にあらわれる」

2015/10/24
「靴を揃える」

2015/10/17
「慈悲心」

2015/10/10
「今日のいのち」

2015/10/3
「知足」

9月 2015/9/26
「人との繋がり」

2015/9/19
「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」

2015/9/12
「大切な時間」

2015/9/5
「恵まれた一日を生きる」

 
8月 2015/8/29
「日日是好日」

2015/8/22
「心」

2015/8/15
「盂蘭盆会」

2015/8/8
「知恵」

2015/8/1
「照顧脚下」

7月 2015/7/25
「人間回復の島」

2015/7/18
「平和への願い」

2015/7/11
「良い習慣」

2015/7/4
「コを積む」

 
6月 2015/6/6
「吐く」

2015/6/13
「供養」

2015/6/20
「適切な言葉」

2015/6/27
「食事」

 
5月 2015/5/2
「自然」

2015/5/9
「芽ぶく季節に」

2015/5/16
「自分の命」

2015/5/23
「流れ星」

2015/5/30
「心の眼で見る」

4月 2015/4/4
「無為」

2015/4/11
「ガッツポーズ」

2015/4/18
「名」

2015/4/25
「いただきます」

 
3月 2015/3/7
「お線香をまっすぐに」

2015/3/14
「彼岸」

2015/3/21
「みていて下さる」

2015/3/28
「1+1=1」

 
2月 2015/2/7
「弔い」

2015/2/14
「善悪のものさし」

2015/2/21
「1メートルの箸」

2015/2/28
「お粥」

 
1月 2015/1/3
「ひつじ年」

2015/1/10
「『見る』と『観る』」

2015/1/17
「仏教徒の行うこと」

2015/1/24
「こころの受け皿」

2015/1/31
「言葉」


2015年12月26日放送「仏縁」

 今年もあと数日を残すのみとなりました。

新聞やテレビでは、今年の十大ニュースがあれこれと選ばれているようです。

皆さんのお家では何を選ばれたでしょうか?

 我が家にとって一番の出来事は、何といっても、先代住職でもある「父」が亡くなったことです。中標津郊外の開拓村のお寺で生を受けた父は、十四歳で故郷を離れ、小僧さんとして修行僧となり、以来、八十七年間、み仏様と檀家の皆さんのご先祖供養を第一として生きてきました。
父が亡くなって以来、多くの方々が、その人柄や思い出を語ってくれました。誰もが、父の優しく、他人への思いやりに溢れた人間性と、悩み、苦しんだ時、その言葉と教えに、どんなにか救われたかということを、懐かしく噛み締めるように伝えてくれました。遺された母や、私たち子供、孫たちにとって、あらためて父を慕う気持ちが込み上げてまいりました。

 曹洞宗の経典である修証義の教えに、私たち仏教徒が実践すべき四つの教えがあります。
一つ目は「布施」といって施しの実践であり、二つ目は「愛語」といって、慈愛の言葉の実践。
三つ目は「利行」といって、人助けの実践。四つ目は「同事」といって相手の立場に立った教えの実践です。
そのどれもが、仏教徒としての大切な実行すべき教えであると示されております。

 父は、僧侶として、その教えを道しるべとして、佛縁深き方々と共に生きてきました。

 新年を迎えるにあたり、あらためてその生涯に思いを馳せ、自分たちの縁(よすが)としていきたいと、思いを強くするこの師走です。

 皆様方の新年のご多幸とご健勝をお祈りし、本日の法話と致します。


芦別市 永昌寺
梅田 正孝さん

  
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2015年12月19日放送「大掃除」

 今年もいよいよ残りわずかとなってまいりました。
皆様のお宅では、大掃除を年末の恒例行事として行っている方も多いのではないでしょうか?それでは、どうして年末に自宅をきれいにしなければならないのか考えたことはありますでしょうか?きれいな部屋で過ごしたいというのは誰もが願うことなのかもしれませんが、きれいな部屋で家族、親戚と共に新年を迎えるというのは特に切実に願うことなのかもしれません。それは、皆さまのご先祖さまも一緒なのではないでしょうか?お仏壇や神棚の掃除をお忘れではありませんか?

 お寺には、節目に行う行持があります。同じ行持でも行い持つと書き、仏道修行を続けることを意味しています。

 私のお寺では、本堂の大掃除を二日間にわけて普段なかなかできない所を中心に行います。一年間、お寺参りや法事などを執り行っていると見えない所に煤やほこりがたまっています。

 「今年一年ありがとうございました」「来年もよろしくお願い致します」とご本尊様、歴代住職様に感謝の気持ちを込め一つ一つ丁寧に磨き、畳み一枚一枚しっかりとふき上げます。そういたしますと、本堂の空間もそして自分の心もなんだか明るくなったような気がしてまいります。掃除は、大事な仏道修行の一つでもあります。


  お仏壇は、お寺の本堂を意味しています。ご本尊様、ご先祖様のお位牌を、お仏壇の中を丁寧に磨き今年一年の汚れを落とし感謝の念と来年一年間の安泰を願うことをしっかりと気持ちを込め、手を合わせましょう。


七飯町 宝琳寺
渡会 英文さん


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2015年12月12日放送「食事をいただく」

 この時期は忘年会、クリスマス会、お正月、新年会などイベントが立て続けにあり、ふだんより豪華な食事を頂く機会が多いと思います。食べることが好きな私は心嬉しい期間です。

 みなさんは、お家でまた外出先で食事をしたとき、処分される食べ残しに目をしたことがありますか。あるとすれば、「勿体ない」と思うはずです。

 世界ではおよそ8億500万人の人が食事ができなく苦しんでいます。そのことを思うと食べ残しを処分することは、後ろめたさを感じます。そして、日本の食料廃棄率は世界でも最悪であり、食事について深く考えなければなりません。

 祖母から聞いた話しですが、戦後まもない食糧難の頃、腐敗していたご飯を、一度水で洗い流し頂いたと聞いています。私は一度、夏の暑い日に、腐敗したご飯の臭いを嗅ぎましたが、思いだすだけでも嫌な臭いでした。

 飽食の時代で育った私は、とても幸せを感じますが、食べ残しを処分するぜいたくな食事の仕方は戦後食事に苦労していた先人たちに、顔向けできません。

 曹洞宗の食事作法「五観の偈(げ)」の第二に「自分が食事を受けるに値する善い行いをしてきたかどうか」を考えて「食事を頂く」とあります。この唱えは私にとってとても厳しい唱えです。食べ物を粗末する者に食事を頂く資格があるんでしょうか。

 私たちは命を繋ぐため、食事に感謝しなければなりません。食材を作った方、運んでくれた方、食事を作ってくれた方に感謝し、食糧難がなくなることを願い、先人たちの食事の苦労を思い、今幸せに食事ができる自分に、心を込めて合掌し、食事をいただきましょう。


函館市 道了寺
河野 高士さん


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2015年12月5日放送「成道について」

 来る十二月八日は、仏教を開かれたお釈迦様が、この世の真理をお悟りになられた日、成道の日です。「成道」とは道が成ると書き、仏道の修行を完成し悟りを開くことです。

 今から約二千五百年前に、お釈迦様はシャカ族の王子としてお生まれになりました。しかし、生老病死などの苦しみを知り、苦悩し、その解決のために王子の地位、愛する妻子を捨てて出家なさいました。それから生死をかけた激しい苦行を六年もの間続けられましたが、極端に偏った修行では悟りを得ることが出来ないことに気づき、苦行から離れました。
その後、ブッダガヤの菩提樹のもとでひたすら坐禅を組まれ、八日目、十二月八日未明に明けの明星を仰いだ時、お悟りを開かれたと言われております。そして、八十歳で入滅されるまでの四十五年間、布教の旅を続けられました。

 その後、その教えを弟子達が後世に伝え、祖師方によって脈々と受け嗣がれ、中国、そして日本に伝わり、今こうして私たちが仏法に触れることが出来ています。これはとても有り難いことだと思います。

 曹洞宗でよまれるお経、修証義(しゅしょうぎ)の中に「人身得ること難し、仏法値うこと希なり」という一節があります。人間として生まれてくることは非常に得難いことであり、その上、仏様の教えにめぐりあうことも滅多にないことなのです。

 生きていることが当たり前のように感じてしまう毎日ですが、成道の日という機会に御仏壇の前で、人身を与えてくれたご先祖様と、仏法に出会わせて下さったお釈迦様に、報恩感謝のこころで手を合わせてみませんか。


北斗市 清川寺
本間 俊介さん


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2015年11月28日放送「お地蔵さま」

今日は皆様が良く知っているお地蔵様の事についてお話を致します。

お地蔵様は正式には地蔵菩薩と言います。お地蔵様は我々を救う為に今のこの世界でもだえ苦しんでる非力な私達を助けてくださる仏様です。その為に誓いを立てられてます。

地蔵菩薩本願経には次の様に書かれてます。土地が豊穣で作物にめぐまれる。家内が安全である。もし亡くなっても天にうまれる現世で出来るだけ長生きできる。願望がかなう。火水の災難がない。過ちやさわりをのぞく。悪い夢をみることがない。旅行しても無事。仏にめぐり会う事ができる。現在において我々を守り、そして利益をかなえてくれる仏様です。

このお地蔵様の事を題材にした笠地蔵と言うお話があります。
このお話はある老夫婦が年の瀬に正月を過ごすのに必要な物を得るために網代笠を売りに行ったのですが一つも売れずに家に戻りました。そしてその帰り道に六地蔵様のたっている所に差し掛かりました。
おじいさんは雪がしんしんと降り寒かろうと傘を被せてあげましたが、一つ足りずその分を自分が巻いていた手ぬぐいを取りお地蔵様に被せてあげました。
何も持たずに帰宅したおじいさんからわけを聞いたおばあさんは、それはよいことをしたと言い、何も買ってこなかったおじいさんを責めませんでした。 後日その功徳で正月を過ごせる位の物を持ってきてくれたと言うお話です。

純粋に正しい行いをする者は救われる、善い行いをすると良いことが起きると言う仏教の考え方を物語にしています。

皆様方もどうぞこれからお地蔵様の前を通り過ぎることなく手を合わせお参りしてもらいたいと思います。


函館市 興禅寺
太田 広康さん

  
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2015年11月21日放送「やわらかなる容顔」

「責め合うより許し合うほうが平和で幸せなのです」平成二十七年曹洞宗北海道教化ポスターの標語です。

今年は戦後七十年を迎えた節目の年にあたり、不戦の誓いを新たにされた方も多かったのではないでしょうか。しかし、世界ではこの間も争いが絶えることがありませんでした。
標語のように、私たち人間は争いをせずに日送りをしていくことは出来ないのでしょうか。

以前「倍返し」という言葉が流行語になりました。「やられたらやり返す、倍返しだ」テレビドラマで銀行勤めの主人公が上司の理不尽な言動に対して発する決め台詞です。
この台詞に視聴者が共感し、ドラマも大ヒットしました。

しかし、国対国、あるいは地域、また、すべての人間関係において「やられたらやり返す」しかも「倍返し」などしていたら負の連鎖に陥ってしまい永遠に争いが絶えることはありません。

道元禅師様は、「ただまさにやわらかなる容顔をもて一切に向かうべし」「どのような場合でも、なごやかな顔つきであらゆることに接することが大切である」とお示しです。

私たちは、いつも心穏やかでいたいと思いながらも、ついつい心にもない言葉を発してしまうことがあります。イライラしている時は一呼吸おいて言葉をかけること、そしてその言葉を自分が受け取ったらどう感じるかを考えてみることが大切ではないでしょうか。

責め合うより許し合いましょう。

お互いに「やわらかなる容顔」で。


函館市 法泉寺
佐藤 孝昌さん


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2015年11月14日放送「今」

今月は11月22日の語呂合わせで「いい夫婦の日」があります。

そこで今日は、年を取ってもラブラブなお婆ちゃんの夫婦円満の秘訣をお話ししましょう。
それは「1日単位で恋愛をすること」
朝起きたらリセット。
つまり、朝は恋愛のスタートです。
お爺ちゃんを振り向かせることからお婆ちゃんの一日が始まります。 だから美味しい朝ごはんは大事で、手を抜くことはありません。 そして、夜になると晩酌とともに、二人の時間。 まあ、たまには喧嘩もしますが、朝にはリセット。 次の日には絶対持ち越さないから、離婚なんて有り得ません。
でも、お爺ちゃんが認知症になってしまったときは、さすがにお婆ちゃんは落ち込んだと思ったら、まったくそんなことはありませんでした。お爺ちゃんが、お婆ちゃんに向かって「どちら様ですか?」と言った時、お婆ちゃんは顔を赤らめて自己紹介を始めました。 あとからお婆ちゃんに聞くと、なんだか付き合い始めのドキドキ感が蘇ったそうです。
スゴイお婆ちゃんですね。
私はこの話を聞いて、お爺ちゃんとお婆ちゃん、ご夫婦で幸せな毎日が過ごせるのは、明日でも昨日でもなく、今この時を大切だと思い日々を過ごしているからなのだと感じました。

禅の教えの中に「日々是好日(にちにちこれこうにち)」という言葉があります。
漢字をそのまま訳すと「毎日良い日」ということになりますが、これは楽しい時も、喧嘩した時も良い日なのです。 晴れた日も、嵐の日も良い日なのです。
喜びも悲しみも、それは何物にも代えられない大切な今なのです。 過ぎた昨日や、まだ来ない明日よりも今が大切だという教えでもあります。

皆様にも「今」を大切に日々を過ごされることをお勧めいたします。


松前町 法幢寺
木村 清憲さん


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2015年10月31日放送「心は言葉にあらわれる」

皆さんはお寺から頂いたポスターやお札をどのようにしているでしょうか?

仏壇や居間、玄関など目の届く所に貼って頂いているでしょうか?

身近に目にする事によって、その言葉や絵を見て日々忘れていた事にふと気づかされる事があると思います。そしてその思いが心の中に染み込んで生かされて欲しいと考えます。

私たちは日常生活で実に様々な事があります。嬉しい事・楽しい事・またその反面辛い事、悲しい事、悩みを抱えているなど、何かしらの思いがあるものです。

例えば、辛い局面にぶつかりどうしていいか解からない時、何等かのヒントを与えてくれる言葉があるはずです。

〈まごころ〉〈いつくしみ〉〈和顔愛語〉などたくさんのいい言葉があります。

私が好きな言葉は、『心は言葉にあらわれる』

楽しい時はいいのですが、怒っている時、機嫌が悪い時などついついその感情が言葉に現れて、他人に対して悲しい思いを与えてしまっているのです。

後で、『あの時は』と後悔しても、一度発した言葉は消しようがなく刻まれてしまうのです。

普段、何気ない時に自分自身を見直すヒントとして是非、参考になる言葉があるはずです。

お札もそうです。

家内安全(家族の健康、家庭の平和を願う) 交通安全(車に気をつける、事故に遭わないように)

お札、お守りを持っているとなぜか安心します。

でも、持っているだけで安心してしまい、自分自身の行動が後回しになっていませんか?

普段、ちょっとした時間に自分を見直す機会を作って欲しいと思います。

ポスター・お札にかかわらず、いいなと思う言葉や絵を書いて貼ってみるのもいいと思います。

そして、心の中に刻んでより良い生活を送ってほしいと思います。


深川市 延命寺
松本 州央さん

  
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2015年10月24日放送「靴を揃える」

先日、東北の友人が住職になるということで、その法要に行ってまいりました。若いお坊さんが住職になるということで、幼い頃から見守って来たお檀家さんの皆さんが大勢いらしていました。
お寺もそれに合わせて修理や改築をしているところで、本堂はできていましたが庫裡の一部やお檀家さんの控室になるような建物ができておらず、本堂に入りきれないお檀家さんは境内にシートを敷き、そちらに座って法要に参加されていました。
私は朝一番から友人のお寺で準備を手伝っていたのでいらっしゃるお檀家さんのことがよく見えたのですが、本堂やシートに上がる際にきちんと靴をそろえて上がる方だけでなく、横にして上がる方、急いでいたのか入ってきた脱いでそのまま上がる方、しかし、その乱れた靴をきれいに直し、整える方もいらっしゃいました。特に何十人分の靴を一人で直してらした方を、とても深く覚えています。

この靴を直すということがどういうことかといいますと、私ども僧侶や皆様が行う合掌、これには左手は自分、右手は仏様、合わせて一体となり仏様への帰依を表しています。私は靴も同じで、左の靴が自分、右の靴が仏様、手と違うのは他人の靴も合わせられるということです。帰るときにきちんと自分の靴が揃っていれば、揃えることを忘れる状態であった来た時よりもいい気分で帰れるかと思いす。

こうして揃えた方と揃えられた方でよい縁が生まれ、これが広がり世界の足並みが揃えばいいな、と思っています。


浦河町 光照寺
蔵野 智海さん


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2015年10月17日放送「慈悲心」

先月のニュースで札幌の円山動物園で、コツメカワウソ、マレー熊、シマウマ、キリンと次々と死んでしまい、動物愛護の観点から問題視されているとのことでした。

今から三百年以上昔、徳川五代将軍綱吉公は動物愛護の究極とも言える「生類あわれみの令」を発布致しました。 理由は世継ぎに恵まれなかったこと。これを憂いた将軍の母が帰依する和尚さんに相談したところ、「殺生をつつしむべし」とアドバイスされたそうです。
将軍はそれを国民全体に徹底させることで自分の願いを叶えようとしたのです。この願いは世継ぎにとどまらず、しまいには自分自身の長寿のためにというものにかわってしまいました。

「お犬さま」と言われる通り、いぬどし生まれのため、特別に犬を保護したことで有名ですが、保護の対象は幼児・老人・動物・魚類・貝類から昆虫にまで及んだそうであります。
このことは、仏教の精神から言えばそのとおりなのです。 しかし厳密に実行するのは著しく困難な法でありました。
案の定、守らない人が続出。そのため、とりしまりがどんどんエスカレートしてしまい、野生動物におそわれて、抵抗しても罰せられ、ついには蚊やハエを殺したことも罪に問われるようになってしまったそうであります。

やがて生活に困難をきたす人々もあらわれ、「天下の悪法」とまで言われるようになりました。

さて、この掟は綱吉公の死とともに消滅したそうですが、病人や子供を捨てることや、牛馬の遺棄の禁止などについてはその後も継続されたとのことです。
さらには、仏教の慈悲の精神や不殺生の教えが広く庶民生活に浸透することになり、江戸時代の平和社会の実現の一因になったのであります。
現代もまた、慈悲心あふれる世の中にしてゆきたいものであります。


札幌市 真龍寺
飯田 整治さん


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2015年10月10日放送「今日のいのち」

お寺では法要の都度、ご案内を出しております。
その中に、
「今朝目が覚めてありがたし、昨日はすでに過ぎ去りぬ、明日は知らじな今日の日を、尊く生きて励まなん。」という詩を載せました。
これは藤本幸邦老師の"今日のいのち"という詩です。

人生に定年はありません。老後も余生もないのです。死を迎えるその一瞬まで人生の現役です。人生の現役とは自らの人生を悔いなく生ききる人の事です。

お檀家さんをまわりながら、最近元気のないお年寄りの方が気になります。
自分は社会に用がない、迷惑をかけている、お迎えがこないか…などと口にするお年寄りの方がいます。
どうかそんな風に思わないでいただきたいと思います。若い頃、仕事を頑張ってこられて今があるのです。若い頃の様にはいかないかもしれませんが、この年だからこそ出きることがあるはずです。

ある時、檀家の91才の男性が、この詩で救われたと言ってきました。
農家を辞めてからする事がなく、好きな畑仕事も出きず悩んでいたのでしょう。毎日眠れずにいたと言います。しかしこの人生死ぬまで現役という言葉に救われたというのです。
そして自分の得意としている畑仕事で、我がお寺の裏の畑を耕してくれ野菜を作れるようにしてくれました。毎日うれしそうに畑を見に来てくれます。

私たちの命はいつ終わるかわかりません。親が与えて下さった尊い命を一日一日大切に感謝して死を迎えるその日まで悔いのない人生を歩んでいただきたいものです。

人生に引退はございません。死ぬまで現役です。


富良野市 洞源寺
池田 真也さん


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2015年10月3日放送「知足」

人が生きていくなかで、欲というものは必ず出てきてしまいます。欲のない生活をすることなど、ほぼ不可能と言っても良いくらいに、生活のあちらこちらに出てきてしまいます。 ですが、欲を少なく、小さくして生活を送る事は可能であります。

まず欲に出会ってしまった時に、自分の生活にとって本当に必要なのか、今のままで足りているのではないかと考えてみましょう。

嫌でも多くの情報が入ってくる世の中です。あの人の履いている靴が欲しい。あのブランドの新作の鞄が欲しい。あんな高級車に乗りたい。あんな豪邸に住みたい。など考えればキリがない程でてきてしまいます。

ですが、今履いている靴はまだ綺麗だし歩くにも走るにも不自由しない。だけど雨の日に履く靴がないから長靴を買おう。今使っている鞄も新作ではないけれどたくさんの物がはいるし使い勝手が良い。車だってまだまだ走れる。家だって今の部屋の数で十分だから、家族が増えるまで貯蓄しよう。考えてみたら本当の今の自分に足りないもの、必要なものは長靴だけでした。

足りている事を知れば余計な悩み事も少なくなり、本当に必要なものが見えてきます。
自分の生活と他人の生活を比べることなく、何事もほどほどに欲張らない少欲知足を心がける事で少し楽に生きていける様な気がします。


上富良野町 大雄寺
瀧本 幸弘さん


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2015年9月26日放送「人との繋がり」

「おはよう」「おはようございます」毎朝担任をしている教室へ行くと大きな声で挨拶をされます。私は、現在祥雲寺副住職をしながら駒大苫小牧高校で教員をしております。元気よく挨拶を交わすとどちらも気持ちがいいものです。

ゴルフ好きが講じて、4年前にゴルフ部を設立いたしました。選手には、挨拶、マナー、感謝の心を持ってプレーするように指導しております。ゴルフ場へ行くと沢山の方が働いており、沢山の方がプレーをしております。選手はその場にいる方すべてに挨拶をします。「宜しくお願い致します」「ありがとうございました」挨拶というコミュニケーションをとることで、人と人との距離が縮まります。

最近では、スマートフォンの普及によりメールでのやり取り、ネット上でのつぶやき等1人でいても自分の気持ちは表現できるようになっています。「先生明日学校休みます」夜遅くにメールがくることがあります。私は必ず「明日の朝電話で話をしましょう」と返信します。後日学校へ来れば、職員室で必ず話をします。顔を見て話をしなければ、現在の状況が分かりません。現代の若者は、人とうまく付き合うことが苦手になっています。文書能力があってもうまく人につたえることができません。人と人との繋がりを考えたとき、挨拶をして、直接会って話をすることが大切なのです。

仏教用語に、「縁」という言葉があります。ここでの意味は、人と人との関わり合いです。お檀家さんの家へいき、「おばあちゃんおはようございます」「今日の体調はどうですか」顔をみてなにげない会話が人と人とのつながりを深くするのです。


中富良野町 祥雲寺
渡部 賢宏さん

  
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2015年9月19日放送「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」

朝晩寒くなると吐く息が白くなってきます。体内から出る温かく湿った吐息が、空気中の小さな塵に触れて、水滴を作り、白く見えます。寒くなればなるほど息は白く見えます。
しかし気温がマイナス三十℃を下回る南極大陸では息は白くならないのです。 南極で吐く息はいつも無色透明です。これは空気中に塵や埃、水滴の元になるものがないからです。

その南極には最近、各国の研究者や多くの観光客が訪れ、本来は存在しない生物が入り込む危険性が高くなっています。観測隊員は種や胞子、土などの持ち込みがないか荷物や体、特に靴の底を厳しく洗浄するそうです。

さて、私の暮らす南富良野町は種ジャガイモの収穫期を迎えました。皆さんの食べるジャガイモの親を育てています。種イモ農家の方は、畑に入る前に靴とトラクターのタイヤを念入りに洗います。これは畑の土とイモをきれいに保つためです。農家の方が靴の底を洗うのは、畑を未来へと繋いでいくためです。

禅の言葉「脚下照顧」とは、自分の足元を見てよく反省しなさいという意味です。「脚下照顧」、足元の埃や塵、目に見えにくいものにも心を配り常に点検する、そういう生活をしなさいということなのです。


南富良野町 全昌寺
大神 裕全さん


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2015年9月12日放送「大切な時間」

一周忌、三回忌といった年忌のお参りで、読経が終わった後にお食事やお茶をいただいている間に、お檀家さんから『なんだかあっという間だったね』とか『いつのまにかすぎちゃったね』というようなお話をよくお聞きいたします。

時間というものは直接目に見えるものでもなく、常に気にしているものでもない為、気づかないうちにいつのまにか過ぎ去ってしまうものなのでしょう。

時間の流れていく様を昔の方は水の流れなど様々なものに例えていらっしゃいますが、私は時間のお話をする際に一つの玩具を皆さんに思い浮かべてもらうことにしております。
それが何なのかといえば、沢山並べてはパタパタと倒して遊ぶ、ドミノです。今の若い方はどうかわかりませんが、私が小さいころには『ギネスに挑戦』などといってテレビで放送していたりもしたので、私と同年代か、それよりも上の方は少なくとも名前と遊び方くらいはご存じのことかと思われます。

あのパタパタと倒れていくドミノ。すでに倒れてしまったものがいわば『過去』です。そしてまだ倒れていないものが『未来』。では今、『現在』はどこになるのでしょうか。それは前のドミノに倒されて、次のドミノを倒すまでの一瞬。それが『今』でございます。

わたくしたちはその一瞬一瞬の今を積み重ねて日々を生きているのです。

倒れてしまったドミノが元に戻らないように、過ぎてしまった時間は取り返すことはできません。どうか皆さんも少しでいいので時間の大切さを思って日々を過ごしていただけたらな、と思う次第です。


愛別町 柏林寺
森川 昭雄さん


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2015年9月5日放送「恵まれた一日を生きる」

私は毎朝、目が覚めたときにその一日が佛の教えに適った一日であるように、そのつど目標を立てて日々を送っています。

と言うのも実は昨年、私は生涯で初めての入院を経験し手術を受けたのですが、大袈裟にも「手術が終わってもこのまま目を覚ませないかも知れない。起きられる保証なんて全くないんだ…」と、とても弱気になっていました。
お蔭さまで無事に目を覚ませたので、今こうしてお話をしていられるのですが…。そのときは四十度を超える高熱で朦朧としながらも、目を覚ませてまた檀信徒の方や親類とお話しができていることが何と嬉しかったことか。
それからは日常の生活に戻ってからも、毎朝、目を覚ませることは当たり前のことではなく、とてもありがたいことなのだと思うようになりました。若い頃には、健康だったときには全く感じたこともなかった感覚でした。
朝になれば目が覚めて、起きて歯を磨いて、顔を洗って、いつもと同じ何ら変わらない毎日であっても自分自身の感情や都合で勝手に決めていた「楽しい日」や「嫌な日」であっても与えられた恵まれた一日を昨日よりも良い今日にできるのは自分自身なのだということに氣付かされたのです。
私たちは皆、己の中に素晴らしい生き方ができる可能性を備え持っており、そこに氣付いてより良い生き方ができる善き機会に毎日恵まれています。

昨日の自分を顧みて反省をし、新しい今日を迎えられたことに感謝をし、恵まれた一日をしっかりと生きようではありませんか!


士別市 弘清寺
藤村 克宗さん


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2015年8月29日放送「日日是好日(にちにちこれこうじつ)」

本日も一日が始まりましたが、如何お過ごしでしょうか?本日は「私達の心のありかた」について少々お話させて頂きたいと思います。

 「日日是好日(にちにちこれこうじつ)」という言葉がありまして御聞きになられたことがあると思いますが、どういった意味でしょうか?
簡単に申しますと、「毎日が良き日である」ということですが、はたして、我々は、そういう毎日を送ることができているでしょうか?

雨雪降れば、心も暗く、空が晴れれば心も晴れる。私達が生きているこの現代社会においては、毎日様々な出来事が止めどもなくテレビや新聞、ラジオ、今ではインターネットを通じて届けられております。

その出来事を目にし、聞くたびに「こころ」が動くのを感じることがあるのではないでしょうか?私も、そういう心の状態を感じることがあります。

たとえて言えば、ろうそくの炎がゆらゆらと動くように、我々の心も日々の出来事の中でゆらゆらと、揺れ動いているのではないかと思うわけです。

スポーツの世界では、「心・技・体」と言い、仏教では「身・口・意」という言葉で「こころ」のありかたが問われてますが、では、どのようにすれば「日日是好日(にちにちこれこうじつ)」と言える心を持てるのかといいますと、

何ものにも代え難い「あなただけのいのち」「唯一無二のいのち」を頂いているのですから、今この一瞬一瞬を精一杯生きること。それに尽きるのではないでしょうか。一日を精一杯生き、一日の終わりに後悔しないように。

心も身体も行いも、皆全てあなただけのものです。

全ての行いはあなたの「こころ」次第です。「日日是好日」という毎日を 送ることができますように、何時でも御自身の「こころ」を省みて心の在り方、居場所を問いながら、良き毎日を過ごされますよう御祈念申し上げてお話を終わらせて頂きます。

御清聴ありがとうございました。


礼文町 吉祥寺
菅原 亨道さん


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2015年8月22日放送「心」

今年もお盆が終わました。お盆の期間は、ご先祖さまのご供養に、お寺にお参りに行ったり、お墓にお参りに行ったりで、お忙しい日々ではなかったでしょうか。

この忙しいという漢字ですが、へんは心でつくりは亡くすという字で出来ていまして、「あれこれと追われて、心がまともに存在しない状態、つまり、落ち着かない気持ちになること」という意味になります。

「心」というのは、禅では「この世のすべては、私の心のはたらきである。心がすべてを作り出している」と説いています。だからこそ、自分の心の持ち方が大切なのです。
日々生活していますと、嬉しいことや楽しいこと、また悲しいことや悔しいことがありますが、それらのことをありのまま受け止めて穏やかに無事に生きてゆくことが禅の生き方です。

ここで一つの詩を紹介いたします。
「あなたの心はどんな形ですかとひとに聞かれても答えようがない 自分にも他人にも心は見えない けれど ほんとうに見えないのであろうか 確かに心はだれにも見えない けれど心づかいは見えるのだ それは 人に対する積極的な行為だから」
この言葉は詩人の宮沢章二さんの「行為の意味」の一説です。

お忙しい日々を過ごしていますと、心に余裕が無くなります。そうなると他の人に対して、優しく出来ません。冷たい心や思いやりの無さも、行いによって見えてしまいます。自分の心の持ち方で世界は違って見えてきます。
どうぞ心を亡くさず、心づかいを大切にして、日々お過ごしいただきたいと思っています。


釧路市 雄昌寺
川崎 光紀さん

  
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2015年8月15日放送「盂蘭盆会(うらぼんえ)」

もちろん「盂蘭盆会(うらぼんえ)」のお話です。

お釈迦様の十大弟子のひとり「目連尊者」その母親は、我が子のみに愛情を注ぎ、物欲深く、他人への思いやりや布施の心がありませんでした。そのため「餓鬼道」に堕ちてしまい、逆さ吊りされたような大変な苦しみを受けていたそうです。

この「逆さに吊るす」をインドのサンスクリット語では「ウランバナ」と言い、これに漢字をあてはめたものが『盂蘭盆会(うらぼんえ)』です。

目連尊者は神通力を使って、餓え苦しむ母親に食べ物を送りました。しかし、食べ物は火に焼かれ、苦しみから救うことはできませんでした。
そこで、お釈迦様に、母親を救う方法をお訊ねしました。

雨の降り続く「雨季」には、僧侶が一堂に会して修行をする「安居(あんご)」がおこなわれます。
 お釈迦様から「安居(あんご)の終了する7月15日に大勢の僧侶を招いて、たくさんの供物を捧げて供養すれば、救うことができる」と教えられました。

その教えのままに供養したところ、極楽往生が遂げられたといいます。直接的に救いの手を差し伸べるのではなく、多くの者に布施をし供養して、功徳を廻らすことによって救われたのでした。

以来、旧暦の7月15日は御先祖様に報恩感謝の供養をする日。更には、「三界のすべての者ども=萬霊等を供養して功徳を積む」重要な日『盂蘭盆会(うらぼんえ)』となりました。

この旧暦7月15日の『盂蘭盆会(うらぼんえ)』、暦が新暦に変わり、地域的事情が加わって8月15日になりました。


滝上町 報国寺
久保田 粋穂さん


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2015年8月8日放送「知恵」

今年もお盆が近づいてまいりました。お盆はご先祖さまに手を合わせるのと同時に、今自分がここに生かされていることの恩を知る、感謝する大切な日ではないでしょうか。

私も両親の恩を受けて成長してまいりました。親の愛情を一杯に受けて、今の自分があることに感謝しています。また社会からのさまざまな恩恵をうけて今にいたっております。

今まで受けた恩はあまりにも大きすぎて、どう考えても「恩返し」などおこがましく、どんなことをしても返しきれるものではありません。
また、恩返しをすればいいという考え方をしてしまうと、受けた恩を小さく見積ってしまい、自分が返したものを大きく評価するようになってしまいます。これだけ返せば十分だろうと子供は思い、親の方は、まだまだ十分に返してもらっていないと考えてしまいます。

であればこそ恩を知ると言うことこそが大事になってくるのはないでしょうか。仏教には、「知恩(ちおん)」という言葉があります。
恩返しすることよりも、受けた恩を心に刻む、恩を知るということこそ大切であると教えております。
恩を知る人は、感謝の心をもってありがとうと言える人です。

このお盆の季節に、目には見えなくなってしまった故き人のお位牌に手を合わせ、故き人を思い出して行くという事を積み重ねていく、亡き人と思いを食べあうということを積み重ねていくことが、恩を知るということにもなろうと思いますし、そういう毎日の信仰の日々が、家族の物語、家族の歴史を作っていくことにもなり、自分自身を磨いていくことにもなるのです。


遠軽町 祥巌寺
中村 祥嗣さん


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2015年8月1日放送「照顧脚下(しょうこきゃっか)」

今はお子さん達が、夏休みの真最中ですね。この休みを利用して家族旅行をされる方が多いと思います。
遊園地や動物園であったり、温泉めぐりや、海外旅行であったりしますね。いわゆる観光旅行です。

皆さん方は観光旅行でお寺をお参りしたことがありますでしょう?その時お寺の玄関やお手洗いなどで「照顧脚下」”脚下を照顧せよ” という言葉を見かけた事はありませんか?
照顧は 照らす 顧みる 脚下は脚の下と書きます。照顧とは用心・注意するという意味で、脚下とは足もとの意味です。
この言葉は「足もとを見なさい」ということで「履物を揃えましょう」と云う注意標語に使われています。

私たちは旅行をしますと温泉の大浴場に行きますね?その時入り口で履物を脱ぎます。ところが風呂上りに履物を履こうとしたら自分の置いた場所に履物がありません。そんな覚えがありませんか?それとも皆さん方は履きやすい場所にある履物を履きますか?自分の足もとを確かめてから履くとありがたいですね。

「照顧脚下」足もとを見なさいということは、自分の足もと、つまり自分自身をしっかり見つめて物事に当たりなさいということです。
私たちは、他人批判はできても自分の批判はなかなかできません。他人を論ずるより、まず自分をしっかり見つめて足もとを作ってください。

照顧脚下ですよ 皆さん


大空町東藻琴 禅法寺
鎌田 宏惇さん


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2015年7月25日放送「人間回復の島」

落語に、こんな小噺があります。兄が弟に向かって、「お前、そんなところで、竿を持って何をしている」「お星様を一つ捕ろうと思っているんだ」「ばか。そこじゃ低い。物干しへあがれ」という話になり、さらに父親が加わって、「それで届くものか、もう一本をつなげ。」

これは人の無学無知を笑い話にしたものですが、無知が偏見をもたらし、人を傷つけることがあります。
四年ほど前、その一例を目の当たりにしてきました。岡山市からバスで一時間ほどの瀬戸内に面した風光明媚なところに、長島という小島があります。沖合いに小豆島が見え、目の前の海には牡蠣の養殖筏が浮かんでいます。
この島には昭和五年に設立された長島愛生園という国立ハンセン病療養所があります。

設立当初から、入所者は、トラックや貨車で運ばれ、島へは船で渡りました。隔離のために橋が架けられなかったのです。
島に入って、まずクレゾールの風呂に入れられ、健康診断を受け、「三ヶ月もしたら帰れるから」といわれて、その後数十年の間、島に隔離されたままというのが実際でした。
ハンセン病の原因である「らい菌」は、非常に感染力の弱い菌であることが分かっていたにもかかわらず、とても怖い病気であるという誤った認識を人びとに植えつけてしまったのです。
そのせいで患者だけでなく、家族も近所付き合いから疎外され、住み慣れた土地から引越を余儀なくされるなどの差別を受けました。ハンセン病に対する「無知」が偏見と差別を生んだともいえます。
現在の入所者は、全員完治していますが、島を出る人は少ないということです。いまだに世間の偏見や差別があるからです。

長島に邑久長島大橋という橋が架けられたのは、昭和六十三年になってからです。この橋を「人間回復の橋」と呼び、いまの療養所を「人権学習の島」として多くの人に門戸を開いています。


小平町 興聖寺
仙石 景章さん


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2015年7月18日放送「平和への願い」

宗谷海峡の彼方に樺太の島影を眺め故郷に思いを馳せながら涙した人々がいるのをご存じでしょうか?

戦前南樺太は日本の領土で四十万人以上の人々が暮らしておりました。終戦直前八月九日にソ連が対日参戦し南樺太の占領作戦を開始し、その目的は南樺太の獲得と北海道侵攻の拠点確保でした。

ソ連軍の無差別攻撃で二千人の民間人が死亡し、避難船三隻がソ連軍に攻撃され千七百人が死亡しております。

樺太からの引き揚げを余儀なくされた人々は四十万人、全てを失ってのスタートでした。
戦後七十年様々な情報は流れて来ますが、樺太で犠牲になり苦労を強いられた人々の事はほとんど報道されません。

これを機に、樺太で犠牲になり日本各地に避難した人々の事を知ってほしい、無念のうちに散った命のご供養にもなると思います。
私の寺には坂村真民先生に書いていただいた「念ずれば花ひらく」の石碑があります。坂村先生に樺太の事をお伝えし書いていただいたものです。先生の平和を願うメッセージが、私達一人一人の平和を願う念いと共に日本の最北の地から世界に向けて静かに確実に広がって行くことを願っております。


稚内市 大コ寺
竹田 俊明さん

  
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2015年7月11日放送「良い習慣」

お釈迦さまが生きておられた時に説かれた教えの中に「心は奮い立ち はげみつつしみて おのれをととのうる者 かかる賢き人こそ 荒波もおかすすべなき 心の島をつくるべし」という教えがあります。

自分で自分を制御する事は簡単なようで実は難しい事ではないでしょうか?
心は、ころころと移り変わってしまうものです。わかっちゃいるけどやめられない。
自分を制御できずに苦しい思いをする事は良くあることです。

ですから、お釈迦様は良い習慣を身につけなさいとお示しです。心を心で制御しようとせず、行いや身なり、良い習慣を身につける事によって心を制御することに力を注ぐのです。

部屋の中をきれいに掃除する事、整った身なりをする事、慈しみのある言葉遣いをする事、規則正しい生活をする事、些細な事を一つ一つ意識して整えていくだけで、意外とすぐに清々しい気持ちになれるものです。
しかし、怠りなく継続していく事はなかなか大変です。いそしみ励んでそうせざるにはいられないくらい、良い習慣を身につけることが大切なのです。

これから、7月盆、8月盆を迎えます。御仏壇を隅々までお掃除して、お花、供物も新鮮なものをお供えします。香炉も燃えカスが無くなるように灰を篩(ふるい)にかけてきれいにします。
お線香が何の抵抗も無くまっすぐに立つことは事の他気持ちの良いものですよ。
御仏壇をきちんと整えてご先祖様をご供養し、感謝の気持ちを捧げます。
自分を整える大切な機会として、良い習慣の一つとして身に着けて頂いては如何でしょうか?


和寒町 隆国寺
池田 尊侯さん


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2015年7月4日放送「コを積む」

縁起物として皆様もご存知の達摩さんは、インドから中国へ初めて禅の教えを伝えられた方で、禅宗の初代の祖師と言われております。
中国が梁という国だった頃、武帝と交わされた問答が伝えられています。武帝とは、その時代の国をおさめていた皇帝であります。

武帝は達摩大師に、「私はこれまで多くの僧侶に供養をしてきたり、写経をしたり、たくさんのお寺を建立してきた。こんな私にどんな功徳があるのだろうか?」と、質問をされました。
それに対して達摩大師は「無功徳」何の功徳もありませんと返答されました。

達摩大師は武帝の数々の功績を否定したわけではなく、いくら善行(よい行い)をしても、見返りをもとめるような行為は、真の善行ではないと説いたのです。

私たちは日常、生活する上で見返りや利益を考えて行動することも大切ですが、よくよく考えてみると、見返りを求めなくてもよい行動もたくさんあるのではないでしょうか?

あまりにも利益や結果を重視する為、苦しみや迷いが起きてしまうことはありませんか?

時には人の為、または社会の為に「見返りを求めず、善いことをさせていただいた。功徳を積ませていただいた。」と感謝をして勤めることが、仏教精神の根幹であり、その姿こそが美しいのであります。

功徳の中でも最も尊いものが「陰徳」といって、人に知られないように善い行いをすることです。

ただただ無心に善い行いをする。

これが「徳を積む」ということなのです。


深川市 大玄寺
横山 信光さん


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2015年6月27日放送「食事」

日に三度のお食事が美味しく頂けるということは、とても幸せなことですし、そのことは健康のバロメーターになります。

今晩は何を食べようか、今度あんなものが食べたいと、美味しいものを食べること、そしてこれを作ること、グルメは生きる楽しみ・喜びに直結します。

さて道元禅師はこのような言葉を残されています。
「之を護惜(ごしゃく)すること眼睛(がんぜい)の如くせよ」
このお言葉は、修行道場における食事当番の心得を示したものです。
「之」とは食材のことを言い、「護惜」とはものを大切にすること、「眼睛」とは自分の目の玉のことです。

つまり、食事を作る心得として、調理の食材を自分の目玉ぐらい大切にしなさい。そうしなければ、美味しい料理はできないと、厳しく諭されました。
よい料理を作るコツは、先ず材料となる食材を大切に扱う心を持つことです。
曹洞宗の寺院では野菜の切れ端や皮も簡単には捨てず、ダシを取ることを利用します。 椎茸でも昆布でも一番だし、二番だしをとり、それを更に佃煮にするくらい大切に使い切ります。

私たちが食物として口に入れるもので、命のなかったものは一つでもあるでしょうか?
米・野菜・魚・肉、これらは全てみずみずしい命を持っていたものばかりです。
私たちは三度三度、その生きた命を食べているのであって、そのお陰で私の命を保ち長らえることができているのです。

私の命が他の命や自然によって支えられて生かされている。そのことに気が付けば、我が身の尊さとこの命を生かしきらなければならないことを感じることでしょう。

食事の時にはその感謝の心をしっかりと「頂きます」「ご馳走さま」に込めて美味しく頂きましょう。


恵庭市 大安寺
押見 俊哉さん


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2015年6月20日放送「適切な言葉」

「言葉は、その時の気持ちや、心境によって、感じ方が違うんですね。」と、話かけられましたのは、ご主人の四十九日法要も終わり、初めてのお月参りに伺いましたそのお宅の奥様でした。

「主人が亡くなり、毎日寂しい日が続きました。元気だった頃の事を思い出しては、別れを惜しんでました。そんなある日、主人が毎日めくっていた、お仏壇横に吊して有った、この『日めくり』なんですよ」と、 見せて頂いたのは、一日から三十一日まで日にちが書かれ、その日その日に、お経のことばや故事等が書かれて居る『日めくり』でした。
「何度となく目にしていた言葉ですが、今までは心に感じ入る事は有りませんでしたが、この言葉を見た瞬間、身体がスーッと、楽になったような気がしました。」と、開いてくださったページには、『別れを悲しむより、出会いに感謝』と、書かれておりました。「この言葉に助けてもらいました。」と、奥様は話されました。

私共の宗旨、曹洞宗を開かれた道元禅師様のお言葉に

「学道の人は言葉を出さんとせん時は、三度顧みて、自利々他の為に利あれば、 是を言うべし。利なからん時は、止まるべし」と、示されておられます。

ご説明致しますと「仏道を学ぶ人は、ものを言おうとするとき、深く・良く 考えて、自分のため、相手のために、良い事と思えば、これを言うべきであり。 もし、良くない結果をもたらすと気づいたら、慎むべきである。」と、言われております。

このような言葉がございます。

たった一言が、人の心を傷つける
たった一言が、人の心を暖める

常日頃から相手を気遣い「適切な言葉」で、お話ができるように心掛けて行くことが大切なんですね。


砂川市 天津寺
滝本 昌典さん


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2015年6月13日放送「供養」

仏教は皆様ご存知の通りインドから中国を経て日本へ伝わりました。その間、み教えと共に、その土地土地の習慣や作法、伝承話しも一緒に入ってきております。その一つにあの閻魔大王の裁判のお話しがあります。

人が此の世の使命を終え、自然の流れである七日を七週かけ四十九日間の黄泉路の旅を中陰といいます。いわゆる亡くなってからの七日勤めの事であります。その中でも特に五週目の三十五日中陰は四十九日前の大きな節目といわれます。それが閻魔大王の裁判の日だからといわれているからです。

子供の頃、「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれるよ」と言われた事はありませんか?他にも「血の池」「針の山」等地獄の怖い印象の閻魔大王。

しかし本来のお姿は私達を優しくつつみこんでくださり、仏様との架け橋になってくださる菩薩様であると言われます。ですから閻魔大王の裁判は「お前は生前中はこんな悪い事をした、こんな酷い事をしたから地獄に落ちろ」ではなく、「あなたは生前中にこんな善い事をした、こんな素晴らしい人生を送られたのですよ」と擁護してくださるものなのかもしれません。

黄泉路の旅を終え、亡くなられた方はもう此の世で善い事をする事が出来ません。代わりにつとめるのが残された私達です。供養は正式には「追善供養」と言います。亡くなられた方に代わって追って善行をつむ事が供養であり、私達の生活も正されるのですよという教えであります。

どうか亡くなられた方の為にも、そして自分自身の為にも一日何か一つ善い事をしようと心掛ける生活を送りたいものであります。


南幌町 菩提寺
岩井 淳一さん


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2015年6月6日放送「吐く」

札幌伏見神社には自分の一番好きな物を一つ絶つことで、願いが叶うといわれている「願い石」があるそうです。これをモチーフにして作られた『吐く』という短編映画でそのことを知りました。「吐く」とは息を吐く。また心の中や体の中のものを外に出すこと。

スポーツ選手などのメンタルトレーニングコーチをされている大儀見浩介さんが、集中力を高めるための具体的な方法として「深呼吸」を薦められている記事の中で、この「深呼吸」する時に大事なことは、「先に息を吐くこと」だといわれているのを思い出しました。深呼吸をしてみようと言うとほとんどの人が先に息を吸ってから吐こうとするそうで、緊張した状態で先に息を吸うと、すでに呼吸が浅く、速くなっているところに、更に息を吸おうとするので過呼吸のような状態になり、逆にプレッシャーを感じることになるそうです。

ですからまずは口から息を細く長く吐き出す、そして、鼻から息を吸い込む。できれば息を吸い込んだ時の三倍以上の時間をかけて息を吐き出す。その時に消極的な気持ちやマイナス思考を吐き出すイメージを持つことを薦められています。

この呼吸の仕方は坐禅にも通じるものがあり、しっかりと息を吐き出すと自然と空気は体に入ってくる。呼吸を調えることが身も心も調えることにつながります。

『吐く』という映画の中で、主人公は願いを叶えるために大好きであった独りよがりな自分自身と決別する、吐き出すことで新しい自分を手に入れ未来へと歩み出しました。

何かを得るためにまずは余分なものをしっかりと吐きだす。「吐く」ことに集中してみてはいかがでしょうか。


岩見沢市 孝禅寺
安彦 智峰 さん


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2015年5月30日放送「心の眼で見る」

 もうすぐ6月、北海道は爽やかな初夏を迎えています。道内の景勝地は、国内外からのたくさんの観光客で賑わっています。

 さて「観光」とは、観音様の観に、光と書きます。意味は、過去の先人が残し、現在に伝わっている、「光」、つまり歴史を観ることです。それは、ただ目で見るだけではなく、その地域の歴史を心の眼で見極めることです。

 お寺にお参りすることは、一般的には「見学」ではなく、「拝観」と言います。 「見学」とは、目で見てその仕組みや構造を学ぶことで、「拝観」とは、過去の先人が残した歴史を心の眼で見極めて、ご本尊様を拝するという意味があります。 ですから、足早に有名観光地を訪ね、写真だけ撮って帰る、では「観光」には少し足りないかもしれませんね。じっくりと「心の眼」でその土地の歴史を「観じる」それが本来の観光ではないでしょうか。

 どうぞ、観光地を訪ねた時、地域のお寺にもお参りください。すがすがしい空気を胸いっぱいに吸い込み、そっと心を落ち着け、手を合わせてお参りください。その土地の「光」を「心の眼」で見つめてみては、いかがでしょうか。きっと心に残るものがあるはずです。


札幌市 大宥寺
吉田 圭孝さん


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2015年5月23日放送「流れ星」

 何気なく夜空を見上げると、流れ星が煌めいて、あったかい気持ちに、反対に「願い事」をしていない自分に気がついてガッカリする。この様な経験は誰にでも訪れることでしょう。

ふとした瞬間、訪れる幸せは
夜空に流れる流れ星の様なものです。
望んだからといって現れるものではないのに
誰にでも、平等に降り注がれる「幸せな瞬間」
それこそ、奇跡の瞬間ではないでしょうか!

忙しい時、周りに目が行き届かない時
まっすぐ前だけ見ていたら・・・

辛い時、苦しい時、哀しい時
うつむいて下を見ていたら・・・

流れ星を見逃してしまうことでしょう
幸せは、すぐそばにあるというのに・・・

目に見えなくても、流れ星は昼間でも降りそそいでいるそうです。
もちろん、空にも星達はキラキラ煌めいていることでしょう。

「願い事」をし忘れて、ガッカリすることなんてありません。
夜空を見上げて「星がきれいだな」そう感じる事もまた奇跡の瞬間なのではないでしょうか?

あったかい気持ちを感じる事が大事です。
たとえ、あっという間に過ぎ去ったとしても、めぐり会えた奇跡、出会えた奇跡に感謝しましょう!

奇跡の瞬間は誰にでも平等に訪れます。
一日一度は、外にでて空を見上げてみませんか?
感じることは誰にでも出来るのですから・・・

ほら、あなたの心にも流れ星


積丹町 観音寺
的場 敬貴さん


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2015年5月16日放送「自分の命」

 皆さんは日々の生活の中で自分の命と向き合う時間がありますか?誰もが親がおり、親にはまた親がおり、十代遡ると二千四十六人、二十代遡ると二百万人あまりの御先祖がいます。この中の一人の縁が欠けると、今、私の命は存在しないのです。

 これだけの人々の縁を頂いて存在する私の命の有難さに気付く事、又だからこそ、この瞬間を精一杯生きなければならないと改めて生き方を考える事が、自分の命に向き合う原点となるのではないでしょうか?

 最近供養とは何か?と問われることや、供養する事が日々の生活の中で疎かになっている事が多き時代になっていると感じます。今ある私の命は、お父さんお母さん、おじいちゃん、おばあちゃん多くの御先祖様の尊いご縁があったからこそ、と感謝しこの恩に報いて生きることが先祖供養の根幹であると思います。

 供養する行為は、他の動物には出来ない人間しかできない行いであります。 しかし、人が人の命を奪い、更には親子の間でも命に手をかける心痛い事件が毎日のように報道されております。動物でさえ、命を懸けて親は我が子を守るのに、人間とは・・・と悲しくなります。

 今一度人間らしく生きていく第一歩として、自分の命がどこからきたのかを考えてみれば、自ずと御先祖様に手を合わせる気持ちが生まれるはずです。故に供養とは生きている私達がするものではなく、供養させて頂いているという事を自覚してしっかりと日々の生活を送っていきたいものです。


小樽市 龍眼寺
三浦 崇春さん


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2015年5月9日放送「芽ぶく季節に」

私事で恐縮ですが、このたび長男が得度(とくど)を行いました。得度というのは髪を剃り、戒法をさずかり仏陀の弟子として、正しい道を歩んで行く決意を明らかにする儀式で、僧侶としての第一歩を踏み出すことになるのです。まだ小学生の息子にはこれがどれだけ重要で、意味のあることなのかは分からないようでしたが、少し緊張したその横顔は凛々しくもあり師匠となる私もまた、身の引き締まる思いでした。

私が得度をしたのは、だいぶ遅く二十代になってからでした。それでも僧侶になることを決意した頃は「人々のためになる立派な僧になるぞ」と純粋に思ったものです。ところがその初心は何処へやら、お恥ずかしいぐらい、今では衣だけがかろうじて僧侶としての面目を保っているだけの、普通の人になっている自分に気がつくのです。

永平寺七十八世の故宮崎禅寺様は一日の真似事を一生続けたらそれは本物になると言われました。また道元禅寺様も坐禅だけでなく食事を作ること、掃除をする事等、全ての行いが修行であり、その真剣な繰り返しが僧侶としての本物の自分を作るのだと言われています。

一世一代の決心が三日坊主になることが我々にはよくあります。芽吹き桜も開花するこの季節、多くの若者が新しい世界へ期待と不安を持って歩みを進めます。いくつになっても遅いなんて事はありません。我々ももう一度、御教えを胸に新しい気持ちで一歩一歩仏の道を歩んでいきましょう。 もっとも我々僧侶が三日坊主だなんてしゃれにもなりませんからね。


札幌市 龍興寺
高垣 晶敬 さん


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2015年5月2日放送「自然」

ゴールデンウィークを迎える好次節、札幌は桜の開花とともに、桜だけでは無く百花爛漫と言えるほど、色とりどりの花が競い合うかの様に咲き始め、地球上の生きとし生きるものの躍動を感じ、私たち人間も心が自然とわくわくする、そんな一年の中でもっとも良い季節と成りました。特に私たちの住む北海道は春夏秋冬の四季が言葉の如く、見事に当てはまるのは、世界中の中でも、ごくまれだそうです。

当り前に住んでいる私たちにとってはそれが、馴れ合いになっていますが違う地域に住む人たちからは、何と恵まれた環境の中で暮らしているのかと、うらやましがられ、一方で住む我々から見れば、冬は寒いし、長いし、大変だと愚痴るのです。知らぬまに欲を追い求めているのです。その欲が厄介であり、思っているだけでも、いつの間にか雪の様に降り積もり、やがて欲に振り回されて、大切な何かを見失って行くのです。

大自然に目を向けましょう。もっと大きな物差しで、世の中を観察すると、見方が変わってくるのです。人間以外の生物は大自然に対して、すべてを受け入れているのです。今咲いている花ひとつとっても、勝手に咲くのではなく厳しい冬の間、こつこつと養分を蓄え、蕾を育て、春の光や暖かさを受けて、やっと花を開くことが出来るのです。花は大自然の恩恵を受けなければ咲く事が出来ない事を悟っている。花だけでは無く他の生物も悟っている。人間だけが一番大事な本質を見過ごしている。なぜなら人間だけが大自然の恩恵を当り前の様に受けとめがちだからです。

そこで、自分の気付かぬうちに、大きな力に、支えられている事に意識を向け、生きているのではない、生かされて生きている事に、目覚める事が最も肝心である。


札幌市 祥龍寺
長谷 泰広さん


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2015年4月25日放送「いただきます」

食事を食べる時「いただきます」と言っていますか?食べる時は必ず言っている。無意識で言っているはず。そして、言っていないという方もいるのではないでしょうか。

世間では、給食費を払っているのだから「いただきます」を学校で言わせるのはおかしいと言う親がいる、という都市伝説的な噂があったりします。真偽は別として、食べる時に「いただきます」を言わないのは疑問に感じます。私達禅宗では、食事を食べる時「五観の偈(ごかんのげ)」という偈文をお唱えしています。

一つには功の多少を計り、彼の来処を量る。
二つには己が徳行の全欠を付って、供に応ず。
三つには心を防ぎ、過を離るることは、貪等を宗とす。
四つには正に良薬を事とするは、形枯を療ぜんがためなり。
五つには成道のための故に、今この食を受く。

簡単に説明すると「多くの命であるこの食物がどれだけの苦労や人の手を経てここにあるのかをよく考え感謝し、自分がこれを食する資格があるのかを省み、食への貪りや怒り・愚痴を捨てて好き嫌いをせず、この食は枯れた体を癒す薬であり、この食によってお釈迦様の説かれた正しい道を歩んでいきます」という意味です。

私達の生命は、お米の一粒、野菜の一切まで多くの命が源となっています。また、食事として完成され口に入るまでに多くの手間を経てきています。ただ空腹を満たす為だけの食事ではありません。感謝の心を持って「いただきます」と言って好き嫌いをせずに食べましょう。


小樽市 正林寺
小泉 義道さん


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2015年4月18日放送「名」

「名前負け」と言う言葉を耳にすることがあります。これは名前だけが立派で、実質がそれに相当しない場合に使われます。

「名は体を表す」という言葉があるように、名前のイメージに合った人間になろうと努力する傾向が、無意識のうちに私達には有るようです。私達は一生のうちに何度、名前を呼ばれるのでしょう。名前は人生にとって、重要な持ち物のひとつ、親に頂いた名前に負けぬように生きる事は親孝行の1つではないでしょうか。

私達、僧侶は僧名を持っています。これは仏弟子としての名前、つまり戒名です。戒名と言うものは、亡くなったらつけられると思われがちですが、戒名はお釈迦様の弟子として生きていくことを誓う名前で、曹洞宗の僧侶であれば必ずもっています。亡き人に送られる戒名も、亡くなった後でも仏弟子として仏様の世界で導かれてくださいという願いが込められています。

来週の4月23日からは大本山永平寺に日本全国より檀信徒の方々が集り、一週間本山のお務めに参加して坐禅をし、説法を受け、身をきよめ、心をおちつかせて仏弟子として戒名を授かる授戒会の大法要がおこなわれます。みなさまも一度参加してみてはいかがでしょうか。


札幌市 薬王寺
田中 基裕さん


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2015年4月11日放送「ガッツポーズ」

本日は四月十一日ですが、何の日かご存知でしょうか?調べてみますと一九七四年のこの日、ボクシングWBCライト級タイトルマッチでガッツ石松さんが世界チャンピオンになりました。その時両手をあげて喜びを表した姿を新聞記者が「ガッツポーズ」と表現したそうで、それから「ガッツポーズ」という言葉が広まったそうです。ということで今日は「ガッツポーズ」の日です。

喜怒哀楽を素直に表現することは日常生活においてもよくあることですが特に、スポーツの世界においてはそれが顕著に見られます。

先日行われた選抜高校野球でも数多くのガッツポーズが見られましたが、その中でガッツポーズを禁止する高校があり注目を集めました。その理由とはまず第一に「次の塁を狙う。ボールから目を離さない」、そして第二に「相手に対する敬意を表す」ということだそうです。

このことは大相撲や将棋、剣道などにも言えることで、その裏にある他者の存在にも目を向けるという態度が表されています。

道元禅師が著された「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」菩提薩埵四摂法(ぼだいさったししょうぼう)の巻には人々が互いに行うべき四つの行いの一つとして同じ事と書いて「同事」が示されております。「同事」とは人と協調していくということです。私たちの生活は多くの縁によって成り立っていますから、時や場所、状況によって常に変化しますが、その中でもより良い関係を築かなければいけません。

気持ちを素直に表現することは決して悪いことであるとは思いません。ただ、相手の姿や立場に自分自身を合わせていくということは、いつも心に留めておくことが必要であると思います。


岩見沢市 孝禅寺
安彦 智峰さん


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2015年4月4日放送「無為」

「死ねば仏さんだよ」ということばを耳にすることがあります。性格が悪く、口が悪い人でも、死ねば和尚さんに引導を渡されて、この世の自分に別れを告げて、仏の世界に旅立ちます。ですから、確かに仏さんには違いありません。しかし、これだけではなく、さらにこのことばは、「死」とともに仏にならざるを得ない現実を言い当てています。

禅のことばに「智慧ある者は無為なり、愚かなる者は自縛す」とあります。無為とは、辞書をひくと、「@何もしないでブラブラしていることA自然のままに任せて、手を加えないこと。作為のないこと。また、そのさま、ぶいB仏教語 人為的につくられたものでないもの。因果の関係をはなれ生滅しない、永遠絶対の真実・真理」とあります。つまり、生きているときは環境や関係に支配され、まさに自分で自分を、しばりつけている状態です。しかし一たび息をひきとると、無為の状態です。自ら死に装束をまとうこともできなければ棺桶に入ることもできません。もうお任せするしかないのです。

近頃、終活が流行し、「自分らしい御葬式を」という宣伝文句で、生きている内に自分の葬儀諸々を決めてゆくことがカッコイイとか、残される人に迷惑がかからないなどと考える方も多いようです。しかし、「自分らしく」とは一体何でしょう。よくよく考えてみれば、周りに振り回されて右往左往しているばかりの己は、実に頼りないものであります。であればこそ、この命があるうちに、わが身をも心をも仏さまの家になげいれて、仏陀釈迦牟尼のように生きて、死んでゆくことをただ只管に願いたい私であります。


札幌市 真龍寺
飯田 整治さん


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2015年3月28日放送「1+1=1」

「1+1=1」。これは昨年、行年101歳で亡くなった私の祖父である前住職が、お檀家さんに向けて話していた言葉です。
「1+1=1」。無論、これは数学の数式としては間違っています。しかし、数学の話をしているわけではありません。
「1+1=1」。これは、この世のありようを指し示した言葉なのです。私たちは何も無いところから生まれるわけではありません。父と母から、1つの命を受け継ぐのです。私の命が、「1+1=1」なのです。ここに足し算・引き算・かけ算・割り算は介在しません。命は、何も無い『0』ゼロから生まれるものではなく、私の命の前には父と母、1つの命と1つの命があるのです。そこから生まれる『1』なればこそ、命とは単に数としてではない最上の『1』となるのです。

 「1+1=1」。私は、この少し変わった数式が、とても素敵で魅力的なものに思えてならないのです。この数式が私に、人と人が共にあるからこそ、喜び嬉しさはより大きなものになり、苦しみ悲しみを分かち合うことができているのだと語ってくれているように感じてならないのです。
「1+1=1」。命はいつも傍にあるのです。

 どうぞ皆さま、この数式「1+1=1」と共に、命と命が今この時この瞬間、隣り合わせであることの尊さ有り難さに思いを馳せて下さい。 そして、あなたの大切な人に「ありがとう」を伝えたならば、より一層、あなたの生きる喜びを大きくしてくれることでしょう。


札幌市 含笑寺
神谷 俊英さん


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2015年3月21日放送「みていて下さる」

長い冬がようやく終わり、春が訪れようとしていますね。ぽかぽかしてくると、外にでて散歩をしたくなるのではないでしょうか?
道を歩いて、菩薩様が祀られていると自然と足が止まって手を合わせたりしませんか? 
その中でも観音様の慈悲深い表情に見とれてしまったりするのではないでしょうか。

 観音様は正式に「観世音菩薩」「観自在菩薩」といいます。広く世の中の声をまるで見ているかのように聞いてくださることからこのお名前になったようです。観音さまは色々な人によって姿を変えて救ってくださるので、変化の仏様として沢山の観音さまがいらっしゃいます。代表されるのが「聖観音」さま。一番有名なもので、なかなか悟りを開くことが出来ない私たちを救って下さいます。また、「千手観音」さまは、千本の腕を持ち、あらゆる人を救うために様々な道具を持っています。そして「十一面観音」さまは、その名の通り十一のお顔を持った観音様です。色々な表情を持っており、その表情で私たちを悟りへと導いて下さるのです。

 横浜鶴見にある、大本山総持寺を開かれました瑩山禅師様のお母様は、なかなか子供が授かることが出来なかったため、毎日お寺に通い祈願していると、ある日お寺からの帰り道、頭だけの十一面観音様を拾い、しっかりと修復し、自宅に安置したところ三十七歳にして懐妊することが出来たという伝説も残っています。仏様を大事にする母の姿が今の曹洞宗の広まりに繋がっています。

 このように私たちを救って下さるのが観音様です。なにか悩んでいたり、落ち込んでいたりしたときに、何気なくその表情を拝んでは如何でしょうか? きっと観音様はあなたを見守ってなにか救いの手を差し伸べてくださるでしょう。


新篠津村 光明寺
藤原 泰徳さん


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2015年3月14日放送「彼岸」

 もうすぐ春のお彼岸がやってまいります。先日友人に「お彼岸って何をするの?」と質問された事がありました。皆さんもお彼岸だから仏壇に手を合わせ、お墓参りやお寺に行かれたりという位で、お彼岸とは何か、何をしたら良いのかと考えた事はありますか。

 欲や煩悩から解放された迷いのない世界を彼岸、反対に煩悩にあふれた我々の生きている世界を此岸と言います。春と秋のお彼岸と言うのは、ご先祖様のいる“彼岸”に我々のいる“此岸”から少しでも近付こうとする習慣であり、日本独自の文化です。

 そこでその彼岸に近付く方法を説いているものに六波羅密(ろくはらみつ)があります。その六つの実践方法の中の一つに「持戒」というものがあります。持戒というのは節度を守り、してはいけないと思う事はしないという修行です。皆さんもしてはいけないとわかっていながらもついやってしまう事があると思います。行儀の悪い事、手を抜こうとした時、生きているといろいろな場面であるでしょう。

お釈迦様は「諸悪莫作(しょあくまくさ)、諸善奉行(しゅぜんぶぎょう)、自浄其意(じじょうごい)、是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」(自らの浄い心で悪いことはしない、良いことをする、これが仏教の教えである。)と説かれています。そして私が大本山永平寺で修行していた時の禅師様は「悪い事をしない人ではなく、悪い事のできない人になりなさい。」とお示しされています。

 言うは易く行うは難しと言う様に、この持戒は簡単そうな事ですが中々できない事です。この春のお彼岸、自分の普段の行いを振り返り、そしてその一つとして持戒を実践しご先祖様により近付いて、浄い心で供養を致しましょう。


赤井川村 大聖寺
小山田 光樹さん


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2015年3月7日放送「お線香をまっすぐに」

 お仏壇をお参りするときに曹洞宗では、ロウソクに灯をともし、お線香を一本立ててお参りを致しますが、なかなか真っ直ぐにお線香を立てることは難しいものです。

 私が大本山永平寺で修行中の時に、たまたまお線香を立てる機会がありました。その時に何気なく皆が立てるように、お線香を一本立てました。そうすると、あとから先輩和尚さんに、なぜ真っ直ぐにお線香を立てないのだ。と叱られました。よく見てみると、正面からは真っ直ぐに見えても、色々な角度から見ると手前に少し傾いていました。先輩和尚さんは、まず背筋を伸ばし、どこから見ても真っ直ぐに立てられるようにならなければならない。それができると、例えば、トイレのスリッパや手拭きタオルが自然と整えられるようになる。それに自分自身の心も自然と整えられるのだ。このように言われたことを昨日のように今でも覚えています。

 私自身も、御月参りで御檀家さんのところにお参りに伺うときには、まず、背筋を伸ばし、お線香を真っ直ぐに、心も真っ直ぐにと思い、お勤めさせて頂いております。皆様も朝、目を覚ましましたら、お仏壇にご飯・お水をお供えして、背筋を伸ばし、お線香を真っ直ぐに、心も真っ直ぐに、整えることをお勧め致します。


洞爺湖町 洞爺寺
五十嵐 大介さん


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2015年2月28日放送「お粥」

本日はお粥についてお話します。

 私は風邪をひいた時、よく食事するものはお粥です。胃が弱り、消化不良を起こしやすい時のお粥は、お腹に優しく、こころや体が温まります。

 また、曹洞宗の僧侶は必ず坐禅の出来る専門僧堂で修業します。修業は坐禅や作務だけでなく、食事もまた禅の修行とし、お粥を中心に大豆や野菜を使った精進料理を食します。

 永平寺の道元禅師は、中国留学中の食の修行をもとにして、『典座教訓(てんぞきょうくん)』と『赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)』という書物を著しており、その中で『赴粥飯法』の「粥有十利(しゅうゆうじり)」では、おかゆの十の効能をあげております。
 「一つには顔色をよくし、二つには体力を増す。三つには寿命をのばし、四つには食べ過ぎがないので楽である。五つには話し方がさわやかになり、六つには胸につかえない。七つには風邪をひかないし、八つには空腹がいやされ、九つにはのどの渇きが消え、十には便通がよくなる」というものです。

 ここまでお粥一品に対して、挙げられているのは、それだけ少量のお米でも満足感が味わえるし、汗ばむほどの保温効果のある健康食であるからです。

 そしてこの十の徳は八百年以上前より伝わる精進料理だけに留まらず、現在にも十分通用し、離乳食や低カロリー食品としてダイエットに利用されるほどの注目されている料理なのです。

 しかし現代の私たちの食事は、コンビニや格安のチェーン店などで気軽に食事をとることが出来る便利性がある反面、偏食や暴飲暴食になりやすいのです。

皆様も、食事をするということは、様々な生命をいただいていることに加え、今回、お粥を例にしましたが、ただ食べ物を「もの」として口に入れるのではなく、体を養う良薬になることを感じて食べ物をいただいて欲しいと思います。


滝川市 円覚寺
本川 芳龍さん


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2015年2月21日放送「1メートルの箸」

本日は「1メートルの箸」という物語をお話いたします。

 我が国には昔から、善いことをすれば、亡くなったあと天国に昇り、悪いことをすれば、地獄に堕ちるという考え方(観念)があります。

 ところで、天国でも地獄でも、食事のときは、1メートルもある長い箸を使っています。天国と地獄、どちらも条件は同じですが、なにやら様子が違っているので覗いてみましょう。

 まず、地獄での食事が始まりました。長い箸で我先にと食べ物を挟み、自分の口に入れようと、必死に頑張りますが、どうしても思うように食べられず皆、イライラしています。そして、お互いの箸と箸がぶつかり合うことで、とうとうケンカになり、食事どころではなくなってしまいました。地獄の食事は、自分勝手に食べ物を求めることで、争いが絶えず、とても醜いありさまでした。

 では、天国での食事を覗いてみましょう。地獄と同じ長い箸を使っているのですが、不思議な事に皆ニコニコしながら楽しそうに食事をしています。天国では長い箸で食べ物を挟み、向かい側の人の口へ運び入れることで、お互いのお腹を満たしていたのです。天国の食事は、共に分かち合い、与え合い、喜びと幸せに満ちていました。

 この物語を聞いて、あなたなら1メートルの箸を、どのように使いますか?  お釈迦さまは「与えるとき、心が豊かになり、惜しむとき、心が貧しくなる」と、説かれています。  皆さん、自分の行いを反省し、「ありがとう」「おかげさまで」という感謝の心で、充実した毎日を送りましょう。


松前町 法幢寺
木村 清崇さん


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2015年2月14日放送「善悪のものさし」

2015年を迎え早いものでもう2ヵ月が過ぎようとしています。世の中の科学の進歩や医療の発達はものすごいスピードで進んでいます。一方で人の善意につけこんだ詐欺事件や家族を殺めるような様々な悲しい痛ましい事件が増えてきています。いつからか世の中は善悪のものさしで考えるよりも損得のものさしで考える世の中になってしまいました。

みなさまは仏教の言葉でよく煩悩という言葉を聞いた事があると思います。煩悩とは、物事を比較することで悩み苦しみが生じます。特に、自分を中心に立てて、自分と他者との比較により苦しみが生まれます。それが、メンツや損得が起きる元凶です。それに対し、一番大切なものは何か、明日自分の命が終わると考えたとき、人はメンツや損得などどうでもよくなるはずです。

曹洞宗の御開祖で大本山永平寺をお開きになられた道元禅師さまは「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」のなかで「無常を観ずるとき、吾我の心生ぜず」と我々にお示しなされました。人の事を思う純心の優しさに触れた時、人は素直になり、エゴが崩れ去ります。そうした地平に立ち戻ったとき、本質でものごとを見る事ができるのです。いまいちど、損得よりも善悪のものさしで考える世の中になる事を切に願っております。


上砂川町 道弘寺
栗原 祥弘さん


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2015年2月7日放送「弔い」

東南アジアにミャンマーという国がございます。ビルマとしてよく知られた国であり、敬虔な仏教国でもあります。また、色々な意味で日本との繋がりの多い国でもあります。

 ビルマといえば一番有名なのは「ビルマの竪琴」という映画でしょう。太平洋戦争の時、ビルマは「インパール作戦」のもと多くの戦死者を出した激戦地でもありました。その際の亡くなった戦友をビルマに残り弔うというのが大まかな話です。

 ビルマでは男子は人生で一度は出家しなければいけないという国です。都市や田舎、山岳地域に関わらず多くの僧院があり、いたるところにパゴダと呼ばれる仏塔があります。私もビルマを旅行した際、泊まるところもない山岳地域では僧院に泊まらせてもらいました。

 とある山岳地帯の僧院で一泊させていただいた際、そこにいた年老いた僧侶が片言の日本語で話しかけてきました。外国人など全くいないビルマの辺境に現れた日本人の私、そして太平洋戦争中に日本軍の荷物を輸送するのを手伝っていたというお坊さん。何か深い縁を感じました。

その地域でも当時は敗走を続け、途中で病気、怪我により倒れた日本兵が沢山いたそうです。そのお坊さんは今でも日本兵の供養をしているという話でした。

 彼は私を小さくて粗末ながらもよく整理されたお墓に連れて行ってくれました。そこには錆びて朽ち果てようとしているヘルメット、飯盒、水筒が置かれ、周りには花が供えられていました。

ビルマ全土にはこのように先の大戦で亡くなった兵隊の霊を慰めている慰霊碑やお墓がたくさんあるそうです。国で作られたもの、または近隣の住民が遺骨を拾い、合祀しているものなど、様々です。

 戦後70年が経ち、もう戦後ではないと言われる世の中ですが、亡くなった人を供養するということに過ぎた時間は関係ありません。私たちも改めてご先祖様の命日など、色々な節目で亡くなった方のご冥福と感謝を込めてもう一度供養とは何かと考えてみてはいかがでしょうか?


美唄市 東禅寺
谷口 絋人さん


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2015年1月31日放送「言葉」

 私達は、自分の意志や気持ちを伝える手段として言葉を用いますね。言葉はとても便利なもので、お互いのコミュニケーションをとる上で必要不可欠なものです。

 曹洞宗大本山永平寺の御開山・道元禅師様は「人間と云うのは、面と向かってやさしい言葉を聞けば笑顔を見せて喜ぶし、人づてに聞けば心に刻んで忘れないものだ」と申されました。これを「和顔愛語」と言います。平和の和にお顔の顔、愛するの愛に国語の語と表します。

 私にはニ歳になる甥っ子がおります。純真無垢に駆け回る姿を見るその子の母親は、穏やかな優しい眼差しで身護り、声を掛け、時に厳しく躾けることもあります。そこにはただ我が子がすくすくと真っ直ぐに成長して欲しいという慈しみの心があるのみです。またそんな光景を見ていると私も顔がほころび優しい気持ちと温もりを頂きます。

 然しながら、よこしまな心や嘘偽りの心より発せられた言葉が相手を深く傷つけ、時には、一生その言葉に心を痛め続けることもあります。一方で、自然に相手を想いやり、幸せを願う心から発せられた言葉がその人を勇気づけ、一生の支えになることもあります。ですから、一言一句、言葉の重みに気をつけ大切に伝えなければいけませんね。

 私達は、言葉に思いやりや、願い、祈りを込める事が出来ます。和やかな表情と、温かい心で語りかける言葉は、相手の心に響き、気持ちを潤おし、お互いに笑顔で解り合える力を持っております。人と人、心と心を繋ぐ懸け橋に和顔愛語を心掛け、みんな仲良く明るい生活をしていきたいですね。


古平町 禅源寺
秋田 洋寿さん


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2015年1月24日放送「こころの受け皿」

 私の永平寺での修業時代に、ある一人の先輩和尚さんに出会いました。その方は、一般家庭に生まれ、その後5歳か6歳の頃に両親が離婚をしたのですが、父親も母親も自分とニ歳下の弟を一切引き取ろうとはしなかったそうです。親戚中を訪ねてまわり、ようやく迎えてくれたのが、父方の遠い親類にあたる、今の住職夫婦のところでした。以来、産んでくれた母の顔をもう一度だけ見たいと、子供心に何度も思ったそうですが、結局産みの母は一度も会いには来ませんでした。

 ここまで話を聞いた時点で、もし私が同じ境遇だったなら、会えない寂しさが転じて産みの母親に見捨てられたという思いに至り、思春期の心は恨みの感情に苛まれ、到底お坊さんになって住職の跡を継ぎたいという気持ちにはなれないだろうな、と思いました。ところが実際のその先輩和尚さんは、出家して立派に修行を勤め上げ、今では住職夫婦の事をとても大切にされています。一体これまでどんなお気持ちだったかお尋ねしたら、両親の離婚も一度も会いに来なかったことも、いろんな事情があっただろうから、今では仕方の無かった事だと思う。それよりも、ここまで育ててくれた住職夫婦には本当に感謝していて、一生を懸けて恩返しをしようと考えたら、お坊さんになる以外に道はないと思ったそうです。

 人は物事を受け止める時、他人を傷つけず、怒りや憎しみに囚われない心の在り方を持つ事によって、こんなにも尊い生き方ができるのです。これが、お釈迦様の教えの中の「正思惟」(しょうしゆい)という教えです。

 人間には生きる上でかなりの自由が許されていますが、まず自分以外の自然や他人の命を尊重すること、怒りや憎しみに任せて言動しないこと、欲を貪らず程々で足りるのを知る事、これらの事に一瞬一瞬気づきながら、尊い一生を全うするのです。


南富良野町 金泉寺
児島 龍憲さん


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2015年1月17日放送「仏教徒の行うこと」

 本日は、「仏教徒の行うこと」についてお話致します。新しい年に変わりました。お寺でも新年を迎える準備があります。その一つに過去帳の準備があります。亡くなった方の戒名が書いてあります。毎年亡くなった方を過去帳に記していきます。その年の初め、過去帳を用意する時は、何も書いていない真っ白な状態です。しかし、一年経ちますと戒名が刻まれています。私はそこに無常を感じるのです。書かれていることは全て実際に起きた事実なのです。

 お釈迦様が、生涯貫いた教えは『この世は無常である。』でした。生きる苦しみ・老いる苦しみ。病気になる苦しみ・死ぬ苦しみ・生老病死と言われるものです。ですので、この苦しみから脱する為に様々な教えを説かれています。

その不安、苦しみを和らげる、ある教えを紹介いたします。

悪いことはしない。
良いことをする。
そうすれば心が清らかになります。

これが諸仏の教えです。  当り前の事ですが、簡単では無いことも、皆さん御存知のはずです。だからこそ、「無常」を感じる心が大切なのです。仏教徒である我々が行うこと、つまり修行は悪いことはしない、良いことをする、このことです。そこに不安、苦しみを和らげるヒントが必ずあります。

 ですから毎日お仏壇に向かい、お寺の方へ向かい、手を合わせて問いかけて下さい。今日一日の行動はどうであったかと。一つでも良いことをしただろうか? 自分に正直に生き抜いただろうか? これが我々仏教徒の行う修行です。


北斗市 光明寺
冨田 大輔さん


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2015年1月10日放送「『見る』と『観る』」

 「あなたは牛の耳と角どちらが前でどちらが後ろかわかりますか」

 これは自動車メーカー・ホンダの創業者である本田宗一郎さんの言葉です。答えがわからず、本田さんに「どちらが前なのですか」と質問をすると「牛を見てごらんなさい。そうすればすぐにわかるだろう」という答えが返ってきたそうです。

 私達は日常生活をおくる中で日々さまざまなものを目にします。しかし、無意識的に興味のないことには単に「見学する」という行動を取り、逆に同じ「見る」という行動でも興味のあることにはしっかりと「観察する」という行動を取ります。

 「牛の耳と角の位置」について多くの人が答えられなかったのではないかと思います。しかし、本田さんはこのような多くの人が興味を持たない事にでも、しっかりと「観察する」ことが良い物づくりにつながると考えていたのです。

 マスコミの発達やインターネットの普及によりどんな情報も簡単に取得できる現代において、私達は物事の表面を見学するだけで、その本質を正しく観察することが少なくなっているように感じられます。特に僧侶の立場からこれを考えますと、核家族の増加で先祖供養を観察する機会が少ないままにその役割を担い、合理主義・効率主義に沿って先祖供養を安易に簡素化するという考えが増加していることは大きな問題といえます。

 先人たちが築き上げた先祖供養をしっかりと観察すること、そしてその本質を後世に正しく伝えていくことが現代を生きる私達にとって、もっとも大切な努めのひとつなのです。

 「あなたは牛の耳と角どちらが前でどちらが後ろかわかりますか」


北斗市 七宝寺
油井 祥隆さん


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2015年1月3日放送「ひつじ年」

 さて今年は、ひつじ年。ひつじは古来より縁起の良い生き物とされています。なぜなら羊はミルクや食糧になり、皮は家に、毛は服にと、生活を豊かにする動物であるからです。

 ちなみに、漢字の「羊」。これにサンズイをつけると、太平洋の「洋」広大な海原を表します。「羽」を付けると大きな翼で飛ぶ「翔」という字に。また食べるという字をつけると「養う」という字になり、大小の大を付けると「美しい」という字になり、示す偏をつけると、吉祥の「祥」と成ります。

 また、羊はヤギの一種でありますが、ヤギが、草以外にも木の皮や木の芽を食べるのとは違い、草だけを食べます。さらに、口の構造から、牛や馬が食べ残す草の茎までも食べることができるので、エサに不自由をしません。また争いをせず、群れをなす羊は一家の安泰を示すものともされています。

 このように、縁起のよいひつじ年の年頭にあたり、皆々さまの、この一年間のご健勝とご多幸を心からお祈り申し上げるものであります。  南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)


曹洞宗北海道管区教化センター 統監
藤原 重孝


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