法  話

HBCラジオ「曹洞宗の時間」(毎週土曜 午前6時15分〜6時19分)にて放送された、
北海道各地のご住職の法話を掲載しております。
また、実際にラジオで放送された音声データの配信も行っております。

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2011年12月31日放送

2011年、今年もあと数時間となってしまいました。申し上げるまでもなく、この一年は、世界中で災害が相次ぎました。 わが国では、この大災害に遭って、改めて人と人との絆、思いやりの心、ありがとうの言葉と感謝することの大切さを考え直す機会となりました。

永平寺の道元禅師は「窮亀を見、病省を見しとき、彼が報謝を求めず、ただひとえに利行にもよおさるるなり」と示されました。言うこころは、困っている人や病に苦しんでいる人を見たとき、その人から感謝されることを望むこともなく、ごくごく自然に、「助けなければ」という「利行」に催される、という意味です。

昨年の今頃は、「タイガーマスク運動」が私たちの心を温めてくれていたものです。ランドセルが買えない子供たちにランドセルを密かに贈る行為でした。これもまた、利行に催された人々の尊い行いでした。

そして、三月十一日の大震災での大津波と追い打ちをかけるような福島第一原発事故。歴史に残るこれらの大災害は大勢の人々の、平凡な日常を一変させました。被災された人々を目の当たりにして、私たち日本人は一丸となって利行に催されたものです。 利行の心が、人さまの悲しみ・苦しみに深い共感を覚えることによって、目覚めさせられたのであります。

さもあらばあれ、旧年の道はそのまま、新年の道になります。あらためて、思いやりの心、感謝の心をもって新年のスタートにしてゆきたいものであります。


歌志内市 明王寺
合澤 淳徳さん


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2011年12月24日放送

私達は日常の会話の中で、よく「お陰様」と言う言葉を使います。しかし、この「お陰様」の本当の意味を理解して使っている方は少ないような気がいたします。

「陰」とは、御先祖さまの霊を表す言葉であり、即ち「お陰様」という言葉は、自分の力だけではなく、それ以上に、御先祖様にお守り頂いていることに対する感謝の意味が込められています。

かつて私が、本山での修行から寺に戻ったときに、妹がこんな話をしてくれました。 私の留守中、お正月などの大事な行事の折には、母が必ず私の席に、私がいた時と同じように陰膳をしてくれていたそうです。 その話を聞いた時には、子を思う母の真心に対して、本当に有り難い気持ちになったものです。

真の「供養」とは、特別にお金をかけたり豪華に飾り付けたりすることではなく、真心を込めて普段通り自然にする行いのことです。それは雨露が自然に草木を潤し育てるように、見返りを求めず、ただ無心に行われることです。

「真心さえあれば、それは必ず念ずるところの精霊に通ずるものである」と、総持寺をお開きになりました瑩山禅師様が言われました。 仏様におりく禅やお供えを差し上げても、実際に食べて下さるわけでも、有難うとお礼をいわれるわけでもありません。けれども真心というものは、必ず伝わるものなのです。その真心こそが「供養」であり、御先祖様に対する感謝の気持ちが「お陰様」という言葉に込められているのです。

とかく我々は、日常に追われて供養の心を忘れがちですが、毎日の暮らしの中で「お陰様」という言葉を使う時には、この言葉の真の意味を思い出して欲しいと思います。


岩見沢市 安国寺
岡田 博孝さん


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2011年12月17日放送

今年も残すとこ僅かとなり、皆さんにとってどんな一年になったでしょうか。一日一日を大切に過ごすことが出来たでしょうか。

先日お檀家さんのお宅にお参りに行き、当家のお婆さまとお話をする機会がありました。今年も一年お元気でお過ごしになり良かったですねと尋ねると、「はい、おかげさまで一日一日を健康無事に過ごすことが出来ました。寂しいことや嫌なこともありましたが、明日にはまた嬉しいことがあると願い、日々の幸せを感じながら過ごした一年でしたよ」と穏やかなお顔でお話をしてくれました。

私たちはみんな同じ時間という単位、同じ一日という単位を過ごしていますが、その中でどのように時間を過ごし、どのような気持ちで一日を過ごすかによって、生活が変わってくると思います。

『日々是好日』という言葉があります。嬉しいことがあった日も嫌なことがあった日も、それは二度と繰り返すことのない大切な一日であるから、過去のことを悔いたり、未来のことを考えたりせずに、この一瞬、その時を手を抜かずに全てを受け止めて、精一杯生きることと言う意味です。すなわちその日を良い一日にするのは、起こる出来事でも、出会う誰かでもない、自分自身のこころなのです。

お檀家のお婆さまも、全てを受け止め、おかげさまの感謝の気持ちで、そして穏やかなこころでその日を『好日』としてお過ごしになったのであります。皆さんの今日一日起きてしまった出来事は変えることはできないけれど、それを受け止めるこころ次第で変わってきます。どうか一日一日を『好日』としてお過ごしをいただき、今年一年を締めくくって頂きたいと思います。


岩見沢市 常厳寺
山下 門仁さん


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2011年12月10日放送

「おとうさん、会いに来たよ…。なんぼ呼んでも返事しないんだから。」 私のお寺のお檀家さんで、寺参りに来られる度に必ずこう言って、お亡くなりになられたご主人のお墓に話しかけるご婦人がおられます。またそれを何度となく耳にしていた私の妻は「○○さんは幸せだね。」と言って私に教えてくれました。私は何とも言えぬ温かい気持ちになりました。

しかし何故、返事がないと不満を言っている奥さんの姿を見て、さらには亡くなっている仏様に対しても、幸せだなと思えたのでしょう。それは、人というのは亡くなっても、きっと何処かで私たちを見守ってくれているから、こちらの思いが通じていると信じているからなのだ、と思いました。結果を求めたり、実際に確認できなくても、幸せは感じられるのだと知りました。

幸せとは一体なんですかと聞かれたら、おそらく多くの方は自分の思うある欲求が満たされた時に感じるものだと答える方が多いかと思いますが、それは本当の幸せでしょうか。

唯教と言うお経の中に「多欲の人は利を求むること多きが故に苦もまた多し 小欲のひとは無求無欲なれば則ち此の患い無し」とあります。ひとつの欲を満たしても、さらに多くのもっと大きな欲望へと変わっていくことで、苦悩もまた増えていくことになってしまうのです。本当の幸福・心の安楽とは、この欲を少なくしていくことにあると教えてくれています。

さて、大晦日になりますと除夜の鐘が打ち鳴らされますが、これは心の闇夜を除くという意味で、人が持つ百八つの煩悩を取り除こうと心の大掃除をする為に打ち鳴らされるものです。

月日はあっという間に過ぎ去って行きます。今年こそ今年こそ、また来年とならぬように今から少しでも少欲に心掛けていきたいものです。


美唄市 禅昌寺
荻野 道弘さん


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2011年12月3日放送

今月の八日は、お釈迦様がお悟りを開かれて仏様になられた日であり、各お寺ではそのお徳を讃え報恩感謝の心をこめた「成道会」という法要を行います。「成道」とは「道を成す」と書き、道を得て仏と成る、という意味です。

お釈迦様は、人は誰でも仏様の心である「仏心」を持ってはいるが、様々な物に執着する心も持っているので「仏心」が表に現れず、苦しみに満ちた人生を送ることになる、と気付かれました。そして、苦から逃れようとするなら、この執着心を捨てなければならないと説かれました。「仏心」とは「執着心を離れた時に、あらわれてくる心」を言うのです。

お釈迦様は、皆がご自分と同じお悟りを開くことをお勧めになりました。しかし、言うことは簡単ですが、実際には非常に難しいことです。たとえば、野球をやるなら全員がイチロー選手になることを求められているようなものです。

イチロー選手のようなプレイヤーになることは難しい。でも、イチロー選手のファンになり、そのプレーに感動することは出来ると思います。同じように、お釈迦様の信者となって、その教えを信じ心を安らかにすることは誰にでも出来ることだと思います。

普段お釈迦様を意識することは少ないかもしれません。この成道会という機会に、お釈迦様の教えに耳を傾け、親しみ、実践していかれることをお勧め致します。


奈井江町 円通寺
矢野 一道さん


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2011年11月26日放送

先日、あるお檀家さんの家にお伺いしたとき、小さなお孫さんが得意気に話しかけてきました。
「ねぇ知ってる?『親』っていう字は、木の上に立って見るって書くんだよ。」
「へぇ、そうなんだ。よく知ってるね。」
「……あれ?でもうちのお父さん木登りできない……」
学校でそう習ったのでしょう。聞いている私も微笑ましくなるような言葉でした。

私もこの話は子供の頃教えられました。「親は子供のことをいつも見守っているものだ。だからこのように書くんだよ」と、親の大切さを説明されたのを憶えています。 親だけではありません。我々の前に累々と続くご先祖様、そしてその先祖をお守りしている仏さま。実に数多くの方々に、私たちは慈悲の眼で見守られています。

この「慈悲」という言葉、慈しみの他に「悲しい」という字が使われているのはなぜでしょう。これは、私たちのよくないところ、直した方がよいところを見て「こうすればもっとよくなるのに残念だなあ」という心配をしてくれる心なんです。 つまり我々は数え切れないほど多くの人から、よいところは伸ばされ、悪いところは直される、ありがたい視線を送っていただいているわけです。

ところが我々は普段、自分のために何かをして欲しいと「願う」ことはしょっちゅうなのですが、その自分自身が「守られている」「願われている」ということには、意識しないとなかなか気づきません。 普段守られ、願われていることに気づき、こちらからもお礼の気持ちで恩返しをする事が、供養に繋がっていきます。

「慈しみの眼をもって衆生を視れば、福の聚(あつ)まること海のごとく無量なり。」

お経の一節にあるこの言葉を、見守られている我々の立場で訳すとこうなります。
「皆に慈しみの眼で見守られているので、我々には幸せが海のように集まってくる。」

お仏壇の前、お墓の前、ご先祖様を思うとき、このことを思い出し、一言「いつもアリガトね。」の言葉を付け加えてみるのも、いいかもしれません。


函館市 高龍寺
永井 正人さん


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2011年11月19日放送

最近「頑固な人」が気になります。

頑固な人ってどんな人なのでしょうか? 言い出したら聞かない人、これは困った人。人と合わせられない人、これは我が儘な人。自分の意見を曲げない人、ある意味そうですね。自分がこれまで行ってきたこと、それをやめないこと、やめようとしないことであると思います。 長い時間をかけて1つのことを考えたり、行い続けてきた人であることに違いはありません。時代遅れと言われたり、古いと言われたり、今とは合わない、といわれることもありますから、悪いイメージが先行してしまいます。

でも、実は「頑固」であること、頑なに自分の生き方を貫くこと自体には、「良し」も「悪し」もありません。

それに比べて、最近の私達は何をするにつけても、終わることを考えています。学校の授業、仕事。「これぐらい出来ればいい」とか、「今日はここまで」といって自分の仕事や行いを区切ることをしています。「上手に時間を使う」ということを目指しますし、無駄にしない、利口なことでもありますが、裏を返せば「打算的」です。 そしてこの打算は時として、自分の人生という時間すら勝手に計ってしまいます。

「頑固に生きる」この生き方には、打算的な仮定や憶測は存在しません。やり始めたことは、やり通さなければなりません。なぜなら、やめるために始めたものではないからです。格好は悪いかもしれませんし、結果も残せないかもしれませんが、自分がしていること、してきたことを行い続けることに「頑固」な生き方があります。「自分」で選び、自分の意志で続ける1つのこと、それが結果として「頑固」な姿になるんです。 「頑固」な人達の生き様が、強く生きるためのヒントを教えてくれているように感じています。

皆さん、頑固にいきましょう!


滝川市 興禅寺
芳村 元悟さん


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2011年11月12日放送

この世の中、お金を借りるにせよ就職においてもきびしい誓約書に署名捺印しなければならないし、学習を目的にする学校の入学においてさえも、そうした手続きをすることが必須条件とされている。 男女が愛情を確かめ合ったうえでの結婚式をあげるときも、当然やらなければならない儀式の順序で、誓いのことばを取り交わした上に、三三九度という固めの盃を交わし、その結び付きをたしかなものとして安堵する。 なにゆえに対人関係において我々は、そういう煩わしい手続きをふまなければならないのか?理由は簡単である。人間不信へのあがきである。

証書を入れ、誓いを取り交わしたからそれが絶対のもの、というのではなく、証書を反故のごとく扱い、誓いを踏みにじる事例は色んな分野において世間にいっぱいあってさまざまな悲劇を巻き起こしている。 そのことを知らない者は居ないと言っていいにも関わらず、尚且つその頼りにならないものに寄りかからなければ安心できないのが人である。

人間の心、そこから出る言葉は、それほど信用がおけないということは、初めっから嘘の塊としてあるのではなく、いつ何時変わるかもしれないという無情性があるということである。 宗教とは、その無情性をみつめることによって、その寂しさを悲しむ心であり、自ずから底抜けに相手を信じようと志向する願いが生まれてくる。

証書や手続きを抜きにしての繋がりこそ、貴重なものとして、儚い人間関係の中に、そういう温かいものを一つより二つ、二つより三つというふうに輪を広げたいものです。


岩見沢市 禅洞寺
渡辺 孝文さん


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2011年11月5日放送

今年6月、私のお寺に男の子が産まれました。 産まれた瞬間、か細い声でおぎゃーおぎゃーと泣き、一生懸命に呼吸をして生きようとするその姿をみたとき、改めて命の尊さを感じました。

人の命は、親から子へ、そして孫へと、次々と命のたすきが引き継がれ、どの一人が欠けても存在しない奇跡のようなものだと思います。 この世に誕生して、生きて、死んでいく。これが私たちの人生ですが、この命は授かったものです。この世に人として生まれて、授かった命を生きているのです。

人として生まれてくるのはなかなか得がたいことです。 お釈迦様はこの得がたさを、「ヒマラヤの頂上から糸を垂らして、海の中にある針の穴に糸を通すようなもの」とたとえられました。それだけ、人として魂を宿す事は奇跡のようなものです。

そんな得がたい命を自分の都合で奪ったり、また自分自身で絶ったりする悲しい出来事が昨今増えています。 生きていく人生の中には、生、老、病、死のように苦しいことがたくさんありますが、だからといって歩みをとめたり、後戻りしたりすることはできません。 苦しみや障害にもくじけず、それを乗り越えていかなければなりません。授かった大切な命を、ろうそくの火が燃え尽きるように、臨終のその時まで生き抜くことが大事なのです。

人生は、誰にも代わってもらうことはできません。二度とやり直しのきかない、一回限りの人生を誰もが生きているのです。 この身が、たとえどんな境遇にあっても笑顔で、やさしい心を持ち続け、共に人生を楽しく生きたいものです。

人は生まれながらに仏であります。我が身ながらに尊いことです。生まれながらにそなわった仏心を生かしていきたいものです。


美唄市 大円寺
岡田 倫尚さん


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2011年10月29日放送

首都圏の駅などでは節電で止まっていたエスカレーターが動き、昼間消していた照明がつき始めたようです。震災後、東京へ行くと空港や駅は暗く、止まったエスカレーターを横目に見ながら、荷物を持って階段を上り下りして、不便に感じ戸惑ってしまいました。

人は、今まで当たり前と思っていた事が当たり前ではなかったと気付いた時、それがどんなに有難いことだったのかと感謝の気持ちになれるものです。 これまで私達は、様々なものを浪費し続けることによって豊かさを求めてきました。それが当たり前のことのように、便利に慣れ錯覚してしまっていたのです。実にもったいないことです。

もったいないという言葉は、世の中にモノが溢れ大量に消費を続ける現代ではあまり聞かれなくなっていました。しかし、モノを大切にしてきた先人たちの生活の中では間違いなく、もったいないという精神が息づいていました。

子どもの頃、ご飯茶碗にご飯粒が残っていると、「最後の一粒までもったいないからしっかり頂きなさい」と言われたように。モノには限りがあり、それらを大切に扱うことで愛着を持ち、さらにはそれを作ってくれた方やそのものに敬意を払う心があったのです。

当たり前と思って自分中心に生きてしまいがちな私達が、実は多くの見えないものの有ること難しのおかげによって、包まれ、支えられ、生かされていることを、感謝の念を忘れずにいたいものです。


豊頃町 放光寺
井上 泰孝さん


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2011年10月22日放送

今や、知りたいことは何でもインターネットから、検索ボタンひとつで探し出せる時代。一昔前なら、書籍を買って読むことでしか得られなかった知識も、インターネット上で調べれば、詳しい解説が無料で見られる便利な世の中になりました。 知識・情報の集積。この点において、コンピュータはもはや万能と言ってよいかもしれません。

私は、お年を召されたお檀家さんのお宅へお参りするとき、よく戦時中の思い出話を教えていただくことにしています。シベリアに抑留された時、餓死していく仲間たちを見ながら、雑草を食べて飢えをしのいだこと。十勝の空襲の際、爆撃機に見つからないよう草むらに隠れた経験・・・。知識としてしか戦争を知らない私に、経験者にしか語れない言葉で教えてくださいます。

曹洞宗ではお釈迦さまから授かったみ教えを、師匠から弟子へ継承する儀式があります。式を行う場所は、部外者の立ち入れないように閉め切った本堂。そこではお釈迦さまの時代からの、歴代の弟子の名前が連なった書の中に、自分と師匠の名前を確認します。この作業を通じて、自分も先人たちの中に名を連ね、初めて一人前の僧侶と認められることになります。経典の知識と同じくらい、あるいはそれ以上に悟りの経験、そのつながりを重視しているのです。

我々が学ぶ学問の知識・歴史事実は、そのかなりがパソコンから引き出せるようになりました。しかし文章では伝わらない、実際にその時代を生きた人が面と向かって話すことによってしか伝わらないものがあります。新しい世代に、経験の継承。たまにはじっくり、ご家族で昔話をしてみてはいかがでしょうか。


帯広市 永祥寺
織田 秀道さん


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2011年10月15日放送

ある夏の日のことです。
お寺に若い御夫婦がお参りに来られました。お母さんの腕には小さな赤ちゃんが優しく抱かれていて、お父さんの手には、三才になる女の子の手がしっかりと握られていました。 お参りが始まるまでも、ご供養のお経をあげているときも、その女の子はずっと、何か呪文のようなことを口ずさんでいます。お経を読んでいる私にはなかなか聞き取れません。 お参りが終わりまして、そのご夫婦とお話をしていますと、また女の子がその呪文のような言葉を言いました。そこで私は「お子さんは何度もなにを言っているのですか?」と尋ねてみました。 ご夫婦は照れくさそうににっこりと笑って「私たち家族みんなの名前です。」とおしえてくれました。 おもしろいことに、お父さん・お母さん・女の子・赤ちゃんの名前がしりとりでつながっているのだそうです。 仮に例を挙げてみますと、「たかし・しずか・かおり・りか」といった具合です。リズムが良くて気に入ったのか、最近いつも口ずさんでいるのだそうです。

お寺はお釈迦様からのおしえを代々護っているところ。ご供養はご先祖様からの命のつながりを確かめ感謝すること。女の子はそれと同様にとても大事な、今の命のつながりを、しっかりとお唱えしていたのです。

ご夫婦の笑顔と繰り返される女の子のやさしい呪文に、楽しく新しい形で家族の絆を感じさせていただき、心があたたかくなった出来事でした。


士別市 玉運寺
坂野 亮宗さん


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2011年9月24日放送

物事の状況には、『ありのまま』の状態があります。意味をつけたり、名前をつけたりする以前の『ありのまま』の世界があります。その『ありのまま』の感覚を会得すること。これが仏の道の根幹であると思われます。

では、その『ありのままの状態』を説明いたします。
人間の目で物事を見る時、そこに価値や評価が起こります。しかし、犬や猫、動物たちの目線で世界を見る時、ただ見え、聞こえ、その事実、出来事があるだけです。天気が良いとか悪いとか、プラスだマイナスだ、損した得したとかは、すべて人間の自分を中心とした価値判断でありましょう。

こういう人間的な評価をつける以前の清らかな状態を、ただひたすら、と書いて『只管(しかん)』と言います。 この『只管』とは、あなたが今向かっている目の前のこと。すべてが元々人間の考えや想念で色づけされていないこと。つまり『ただ』です。 あらゆる思想や主義、思いを交えない、ただ、そのままの状態。物事に良いとか悪いとか、買ったとか負けたとか、忙しいとか暇だとか、好きとか嫌いとか、このような思いを起こす以前の世界・精神・自己の姿であります。

お釈迦さまはこのことを、仏教の本質であると説かれ、すべてのことに評価をつける以前の世界を知ること、気付くこと、そういうまなざしを持つことが真の悟りであり、また、そこに住することが、涅槃・彼岸・菩提の道である、と示されております。

何ものにもとらわれない、なんでもなく、あたりまえで、すがすがしい、ありのままの精神状態『只管』。そこを悟ることができれば、人は誰でも大安楽へと導かれることでありましょう。


標茶町 瑞龍寺
西嶋 隆元さん


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2011年9月17日放送

私たち人間は、限られた「命」を救うという事は不可能であり、そこは無力です。しかしながら、どんな人間でも、人の「心」は救う事ができる。救うまで大げさでなくとも、相手の「心」に触れる事ができる。メスで体を開かなくとも、「心」に触れることができる。互いに触れ合うことができる。 そんな素晴らしい力が、時代にも、国や人種にも、性別にも、年齢にも関係なく、全ての人間に、全ての生命に備わっております。

その力は、時に「愛」と呼ばれたり、「強さ」と表現されたり、「優しさ」と称されたりも致しますが、仏教ではこれを「慈悲」と申します。

例えば、「慈悲」をわかりやすく「優しさ」という言葉で表現すれば、人は誰かに一つ「優しさ」をもらう事ができれば、一つ優しくなれる。優しい気持ちになれる。人間が一つ「優しさ」を投げかけた事によって、ここに「優しさ」が二つ生まれる。これが人間同士の本来の姿でなければならないはずです。

心に「優しさ」を持つというのは、実は勇気がいる事。握ったこぶしを開くというのは、実は勇気がいる事です。しかしながら、「優しさ」を持ち続けることは、何よりも強いこと。どんな武器を持つよりも、どんなこぶしで戦うよりも強いこと。「慈悲」の心は、何にも勝るものであり、そしてそれは、本当は誰しもに備わっているものなのですよ、という仏教の御教えです。

一切衆生悉有佛性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)
全ての人の心には、分け隔てなく、純粋な「優しさ」がある。
全ての人の心には、分け隔てなく、慈悲がある
全ての人の心には、分け隔てなく、仏さまいらっしゃる。
その心を、全ての人が今一度、見つめ直すことが大切です。


稚内市 寿徳寺
佐々木 隆宣さん


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2011年9月10日放送

曹洞宗大本山永平寺の修行僧は、毎年七月、日本アルプスの霊峰・白山に登り、山頂の白山神社へ詣でます。

数年前、久しぶりに白山に登ってみると、往復十四キロの山道は、なまった体にはあまりにも厳しく、何度も挫折しそうになったものです。 帰宅してから、快適に登山をするにはどのようなトレーニングを積むべきか、色々と調べてみました。結果は「実際に山を登る」という、何とも当たり前の答えでした。 闇雲に登るのではなく、歩幅やペースを考え正しく登る。そこで、近所の小高い丘で何度も何度も訓練を重ねました。 その甲斐あってか、翌年からは景色を眺めたり、写真を撮ったりと、気持ちにもゆとりができ、快適な登山ができました。

同じように、何かを上手くなりたいと思ったら、そのことをやり続けることが一番良い方法です。スポーツでも、料理でも、勉強でも、仕事でも。 そしてもっとも重要なのは正しい方法で続けることです。登山の歩みのように、ペース配分や呼吸、そして体調管理と装備品の手入れなど。ふだんから正しい努力を積み重ねることが大切です。 この「正しく努力をし続ける」ことを仏教では「精進」といいます。

一滴の雨だれでも、長い年月をかけて石に穴を開けることができるのです。


中頓別町 開禅寺
太田 元穂さん


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2011年9月3日放送

町役場の職員で友達の多い、音楽を愛する人が亡くなり、お通夜の席でさだまさしさんの「防人の詩」をかけさせていただきました。 仏様のおしえで「生老病死」と無常が入った詩でした。

私は時折 苦しみについて考えます
誰もが等しく 抱いた悲しみについて
生きる苦しみと 老いてゆく悲しみと
病の苦しみと 死にゆく悲しみと
現在(いま)の自分と
おしえてください
この世に生きとし生けるものの
すべての生命に限りがあるのならば
海は死にますか 山は死にますか
愛は死にますか 心は死にますか
私の大切な故郷もみんな
逝ってしまいますか

三月十一日、東日本大震災。大津波、さらに原子力発電所事故という未曾有の大災害に、私も修行仲間と慰問をさせていただきました。 甚大な被害の様子に、身の凍る思いをいたしました。 少しでも一人ひとりが、安穏な暮らしが訪れますよう、被災者の皆様と向きあい、わがことと受けとめ、ともに支えあうことが大切です。
この詩に

わずかな生命の
きらめきを信じていいですか
言葉で見えない 望みといったものを
去る人があれば 来る人もあって
欠けてゆく月も やがて満ちて来る
なりわいの中で
※『防人の詩』 1980年7月10日 作詞・作曲・歌:さだまさし

標津町 龍雲寺
梅田 一成さん


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2011年8月27日放送

私のお寺では、三年前位から、ふた月に一度のペースでありますが、坐禅会をしています。そして坐禅が終わると、参禅された方々をお茶とお菓子でもてなし、歓談のひと時を設けています。禅寺ですから布教の一環ではあるのですが、それ以上に、お寺にたくさん人を呼びたい、お檀家さんは勿論のこと、地域の皆さんにも、お寺と言うものが身近な場所であると感じて頂きたい、と思ったからです。

お寺へ行くのはお葬式やご法事の時ぐらい、あとは何かない限り行く所ではない。また逆に、何事もないのにお寺へ行くのは変、という昨今の状況。このような存在ではなく、お寺と言うものは境内やご本尊にフラリ訪れてもホッとできる場所、心が安らかになれるトコロ、と感じてもらいたいのです。 かつて、お寺は地域の集会の場でもあり、地域の人々の心の拠りどころ…安心の場でもありました。もう一度お寺がそういう場所になれば…というのが私の願いであり、坐禅会を始めた動機です。

『坐禅』と聞くと、未経験の方は「痛い、きつい、怖い、厳しそう」というイメージで、「チョットは興味があるけれど、いざとなると中々…」と言う方が多いようですが、しかし、一度でも経験された方は一様に清々しい面持ちになり、坐禅を体験してみて――言い方は人それぞれなんですが――皆さん「良かった。心がホッコリした。落ち着いた。何か溜まったモノが出たみたいでスーッとした」などなど。そして、「また坐禅をしてみたい」と言われます。鐘や太鼓で人を呼んでみてもそれは、一回きりのイベントで終わってしまいます。

『坐禅』は、「安楽の法門なり」と道元禅師さまはお示し下さっています。『坐禅』に親しむ人を増やすことで、お寺に人の足を向けさせることが出来る、『坐禅』には人々を安心に導く大いなる力が在ると…私は信じます。

皆さんも一度、安楽の法門を潜り、安心への道を歩いてみませんか?


根室市 開運寺
山崎 祐久さん


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2011年8月20日放送

今年のお盆はどのように過ごされましたか? 里帰りし、墓参りされた方、お寺参りに行かれた方、それぞれ亡きご先祖様に手を合わせご供養の誠を捧げられたことと思います。

さて皆さんは灯篭流しを知っていますか? 私のお寺では今でも灯篭流しを行っています。

お盆は亡き家族、ご先祖様がなつかしい我が家へ里帰りする日ですが、お盆の終わりには、お迎えしていたご先祖様をお送り致します。 灯篭流しは、お盆に帰ってきたご先祖様の御霊を仏様の世界へと送り出す儀式(送り火)が変化したものを言います。 それぞれのお家にお迎えした仏様のお名前を灯篭に書き込み、たくさんの小さな灯篭に火をともし、川や海に流します。 毎年たくさんの灯篭は読経の中、ろうそくの明かりを照らしながらきれいに流れていきます。 ゆらゆらと流れて行く様は神秘的で、しだいに遠くなって行くローソクの灯りがご先祖様の魂を象徴するかのようです。

ご家族大勢で参加する方、お子さんを連れて参加する方、お友達と参加する方など、それぞれ手渡しで川面に浮かべたり、川岸にたたずんで亡き家族を思い手を合わせるなど、思い思いのひと時をすごしています。

今年のお盆もそれぞれのご先祖様の御霊をまごころをもってお迎えし灯篭流しでお送り致しました。 経験のない方でもし皆さんの地域やお寺で灯篭流しを行っているところがあったら、来年はぜひ参加してみませんか?


紋別市 祇園寺
北川 智徳さん


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2011年8月13日放送

今日、八月十三日はご先祖を我が家にお迎えする日です。皆様方も、いつもとちがった気持ちで今日の朝を迎えたのではないでしょうか。

私の母親が亡くなってから今月でまる二十年になります。毎年この時期になりますと、いつも以上に懐かしく両親を想います。今生きていたらどんな言葉をかけてくれるのだろう、心配でハラハラしながら毎日毎日を見守ってくれているのだろうなあ、と考えたり致します。そして生前よく口にしていた言葉を思い出すのです。

当時の私は悩みのドロ沼にどっぷりと浸かっているような顔をしていたのでしょう。「心配で苦しいことがあったら、自分で抱え込まないで観音さんや仏さんにしょってもらいなさい。肩の荷は軽いほうがいいんだよ」と話していました。

昔のひとの歌に「後は人、先は仏にまかせおく、己がこころのうちは極楽」というのがあります。何か取り越し苦労をしそうなときに呪文のように何度も繰り返してこの歌を読んで居りますと、だんだん気持ちが楽になってまいります。

さて、私のお寺では通夜の時、読経、お説教のあとに尺八を献奏させていただきます。 亡き人のご冥福をお祈りするのはもちろんですが、あとに残されたご遺族、参列者の方々の悲しみの心、寂しい気持ちに、尺八の音色が、あたかもクスリのように優しく浸み入ってくれたらと念じ願いつつ、吹かせていただきます。

今年もお盆を迎え、ご先祖様への感謝報恩のこころを形にあらわし、安心して見守っていただけるように、精一杯、一日一日を大切に生きていきますと、お誓いいたしましょう。


釧路市 大康院
横山 寛道さん


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2011年8月6日放送

うちのお寺では朝と夕の二回、鐘楼堂の鐘を撞いています。石垣を切って作ってある階段を上って鐘を撞くのですが、その階段がちょうどいいのか、よく大きなクモが巣を張っています。 鐘を撞く時間のちょっと前にその階段を上ろうとすると、階段いっぱいに巣を張って真ん中に堂々としているんですね。

通れない、さて困った。

私はいつも階段のすぐそばに細い竹の棒を置いていて、それでクモの巣を払うんです。そうすると驚いたクモは石垣の陰に隠れようと、一目散に糸を伝って逃げていく。そうやって巣を払って階段を上がらせて貰うんですが、何時も何時もせっかく夜に作った巣を壊されて可哀想だなという事で、たまに竹の棒でちょっと離れた林に移ってもらうんです。

ある朝、鐘を撞いた後に林に移ってもらおうと、棒を石垣のすみで小さくなっているクモに差し出しました。 するといつもはゆっくり棒に移るクモが、ちょっと後ずさりしてまた体を小さく丸めてジッとしている。なので棒の先をまた近付ける。また二、三歩後ずさりして小さく身を縮ませている。その格好は私の子供とまるきり同じでした。

今、私には二人の小さな子がいます。普段は生意気ですが、怖い思いをしたときなどは「とと、とと」と私を呼びながら私にしがみ付いてきます。それと全く同じ格好でした。 そう思えた瞬間、いままでずっと苦手だったクモがとても小さく哀れで、いとおしく、いとおしくなりました。人と姿大きさは違えども、それは確かに、一生懸命な命でした。

去年の夏の朝、幼い時からクモが苦手だった私とクモの四十五年目の再びの出会いの話でありました。


遠別町 正法寺
山本 大樹さん


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2011年7月30日放送

あるお檀家さんへお参りに伺った時のことです。
「ごめんください!お寺です。お参りにまいりました。」
「ご苦労さまです。どうぞ!」
「失礼致します。」
そう言って私はいつもの様にお茶間を通り、一直線に仏壇の前に座ってローソクに火を灯し、線香を立てて手を合わせてチーン、チーン、チーンとお勤めを始めました。

でも何だかいつもと違う感じがします。それで仏壇の周りをよく見ると一枚の絵が仏壇の折戸に貼ってありました。その絵は丸刈りにメガネを掛け、黒い服を着て紫の小さなエプロンを着けた私よりちょっぴり若い男性が描かれているのがわかりました。そしてお勤めが終わってもう一度よ〜くその絵を見てみると、その絵の左側に平仮名で「ひいばあちゃんのおまいり、いつもありがとう。 はるか」と書いてありました。

私は「この前一緒にお参りをした曾孫さんが描いてくれたんだな」と直感的にそう思いました。そのあとすぐに檀家さんが、「うちのはるかが描いたんだよ。」と教えてくれました。

私は素になって、何度も何度もうれしい、うれしいを繰り返しました。それと同時に色々な疲れや悩みが吹き飛んで、体中にエネルギーが充満してきて、自然と頑張らなくてはという気持ちで一杯になりました。 このひいおばあちゃんの命を受け継いだ、願いや思いがいっぱいつまった曾孫さん、はるかちゃんの行い、あたたかくて思いやりのある言葉、おくりもの、素敵だと思いませんか!

お盆が近づいています。


新得町 永福寺
大崎 道春さん


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2011年7月23日放送

私達は、喜怒哀楽などの自分の感情や思いを誰かに分かって欲しいと思います。そして言葉を用いて自分の意志を相手に伝え、その心のうちを理解します。お互いに認識を共有することで人間社会が営まれています。言葉は人と人との交流に重要な役割をもちます。

「あの時あの人にかけてもらった一言に救われた」「生涯忘れられない言葉」もある一方「あの人にあんなことを言われた」ということも誰にでもあるはずです。それだけに言葉の使い方如何によっては毒にもなり、薬にもなってしまうのです。よくよく注意して使いたいものです。それ故、私達・仏教徒が実践すべき徳目、愛語が大切になってきます。

母親は幼い子を穏やかな優しい眼差しで見守ります。「愛語」というのは、そんな母親の気持ちになって心から人を思いやる、温かい言葉をかけることです。悩み、悲しむ人を力付け、その人が笑顔になると自分もうれしくなります。慈愛の言葉、まごころの言葉が、その人の一生を良い方向に導くこともあります。また、その人を思って叱る言葉、厳しく言う言葉も「愛語」です。表面的な優しい言葉ではなく、本当に相手のためになる言葉をいいます。

多くのものに支えられ、生かされている自分。人と人との絆はかけがいのないものです。このことに気づき、「愛語」を実践することでお互いに生きる喜びとまごころの絆を深めていきましょう。


美唄市 東光寺
東松 道仁さん


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2011年7月16日放送

新聞の投稿欄には読者の方が、その日の出来事や見たり・聞いたり・思った事、感謝の気持ちや憤り・疑問や提案などが投稿され、毎日色々な事柄が掲載されます。その中で、人の温かさに接する事柄を読むとホッとする事があります。

ご自分のお子さんが、学校や塾の行き帰りに定期券やお財布を落とし困っていると、見知らぬ人から交通費を頂いた事や、外出先で急に気分が悪くなりうずくまっていると、見知らぬ人から声をかけてもらい、自宅や病院まで送ってもらった事。

その投稿をした方々は、突然の事でその場では充分な御礼を言うことが出来なかったけれども、今改めて紙面を通して御礼を言いたい。 どのような形にせよ、お世話になった人に対して感謝の気持ちを伝えたいという心の温まる投稿です。

そこには、困っている人を見過ごす事は出来ずに手をさしのべたのであり、御礼を言ってもらおうとか、感謝してもらおうとか言うことではなく、ただ純粋に助けてあげたいという気持ちで有った事と思います。

私たちは、誰かに助けられたり、優しい心配りを頂いた時に、合掌して感謝の心を表します。 合掌は、「祈り」の姿であり、「感謝」の姿でもあります。 食事を取る時は、目の前の食事が出来るまでに、多くの人びとの手間ひまが掛けられている事に対して、「お蔭様」という感謝の心が湧きます。 それが「いただきます」という感謝の言葉になり、「合掌」という感謝の姿で食卓に向かうのです。 今日一日、「感謝の心」・「感謝のことば」・「感謝の姿」で暮らしたいものです。


砂川市 天津寺
滝本 昌典さん


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2011年7月9日放送

お檀家さんに、八十八歳のおばあちゃんがいます。若い頃結婚をして男と女の子、二人の子宝にも恵まれて、何不自由なく暮らしていましたが、会社を大きくする為に少し借金をしました。半分位返した頃ご主人に他界され、息子さんの代に成っても返済がうまくいかず、追い打ちを掛ける様に、息子さんも亡くなり、バブルがはじけ資金繰りが出来ず、ついに倒産してしまいました。

四十五年間、家族の為会社の為に尽くして来ましたが、残ったのは三千万円の借金でした。家や土地、家財道具など有りとあらゆる物全てを売ってお金に換えても、二千万円も返さなければ成りませんでした。七十近いおばあちゃんが、その日から生きて行くのも大変な時に、食べる物も着る物も削り、人とのお付き合いもせばめて、返済の毎日が始まりました。

その中で、おばあちゃんはご供養だけはきちんとしてこられました。月参りも法事もお寺詣りも、只の一回も休んだ事は有りませんでした。好きな言葉は『日々是好日』です。働くのもお参りや法事をするのも、今日の此日が私にとって、とても良い日だと言っていました。いつもの様に月参りのお経が終わり振り向くと、目に涙を一杯溜めて、ぽたぽたと落としながら、私の手を握り「やっと借金返し終わったのよ。お寺さん有難う、今日が一番いい日だよ。生まれてから今日まで仏さんを信じてきてよかった。ご先祖を大切にして来てよかった。有り難や、有り難や」と言いました。

おばあちゃんの手は、年老いた女性の手とは思えない程、大きなゴツゴツとした、ざらざらの冷たい手でした。


芦別市 大英寺
日比 英孝さん


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2011年7月2日放送

最近、巷の若い女性の間では「困り顔」というのが流行っているそうです。女性向けファッション誌のモデルさんなどが写真を撮るときに眉をへの字にして、視線をそらし、口を少し尖らせて小首をかしげる表情が「かわいらしく」見えるのだそうです。

写真など、一瞬の表情での「困り顔」はかわいらしくて良いですが、日常の中での「困り顔」は出来れば避けたいものです。 私なども、いつも笑顔でいたいと思うのですが、これがなかなか難しいものです。日によっては落ち込んでいたり、イライラしたりと知らず知らずに顔に出ているようで、そんな時に無理に笑顔を作ってみても、なんだか微妙な表情になってしまい、人との会話も弾まずに終わってしまいます。これではまさに「困り顔」です。 「困り顔」のお坊さんを見ても誰も「かわいい」とは思ってはくれないですよね。

いつも笑顔でいるというのは、常に心も穏やかでいるということが必要で本当に難しいことです。しかし、これが私たちの人生にはとても必要なことです。 いつも笑顔の人は世の中や自分の事をよく知っているのです。そして不平不満を言うことが「困り顔」を作るということも良く知っているのです。素敵な笑顔の人に出会った時、私たちはすがすがしい心安らかな気持ちになりますよね。 それはきっと、その時のその人の心が誰よりも晴れ晴れとしているからかもしれません。

お互いに笑顔で心を和ませ、明るい言葉で心を楽しくする。毎日忘れずにこころがけたいものです。困り顔よりも、つられて一緒に微笑んでしまうような笑顔の人の方が、やっぱり一番素敵です。 皆さんの大切なご家族が「今日は良い一日になりそう」そう思えるような笑顔を、今朝はあなたからしてみてはいかがでしょうか。


伊達市 大雄寺
奥村 孝裕さん


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2011年6月25日放送

私の師匠が、人の話を聞くときの心得として「右の耳から入れて、左の耳からす〜っと流し出すんだ。自分のちっぽけな智識、経験や自分勝手なスキ・キライ、分別概念を通さず、ただ声を聞くのだ。頭を少しでも働かすと、本当の意味にほこりがついてしまう。だから右の耳から入れて左の耳から出すのだ。」とお教えをもらいました。人は、相手の姿形性格にとらわれてしまって、素直に見たり聞いたり感じたりすることができなくなる事があります。

私の母は二十年程前に亡くなりましたが、生前一緒に暮らしていた時、私を心配して注意してくれたのですが、私は素直に聞けず、「わかっているよ。うるさいなー。」と言ってしまいました。 母の葬儀が終わり四十九日が終わり、一段落したある日、姿ない母の言葉を思い出しました。今思うと、自分のことを一番知り、わかってくれる母の言葉を素直に聞き入れなかったことを後悔しています。

人から褒められたら、えらくならずにただ素直に喜べばいい。人から馬鹿と言われても、馬鹿になるわけではない。人を憎まず、自分の行い、言動を反省すれば良いわけです。 それは簡単そうでむずかしいけれど、我がままな見方や自分中心の分別概念を一切入れず、見たまま、聞こえたまま、感じたまま素直にそのまま受け入れれば本当の声・仏の声が聞こえてくるのではないでしょうか。


泊村 法勝寺
江良 敬一さん


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2011年6月18日放送

いのちって何だろう。幸せって何だろう。 東日本大震災は私達に、あらためていのちを、私達の生きることの意味を問い直す契機となりました。 今まで信じてきたあらゆるもの・・・いや自分が勝手に信じたがっていた総てのものを根底から覆してしまったのです。

「恵の海」は地震と津波とによって人々のいのちと、幸せな暮らしそのものを奪い去る「恐れの海」となり、原発事故は、豊かな生活の基盤となるエネルギーを失わせるだけではなく、「目に見えぬ放射線」という底知れぬ不安を与え続けるものとなりました。

畏れ敬う心、「畏敬」とは人の力を超えた大自然に、人としての慎みをもって敬い大切にする心。自らのおごりをこそ恐れよとの「戒め」なのです。 大自然との共生の中に、今日一日の平穏を祈り、工夫と努力惜しむことなく勤め、無事を心から喜んで感謝する。 今日出会えたことが嬉しい、出来ることが楽しい。今日の幸せと喜びを共に分かち合いたい。

おごり、見下し、我が侭、その時々の都合勝手は自らの人間性を貶めることに他ならず、我も又、大自然に生かされている身なのだと慎み励み勤めてこそ、互いに人と人、人と大自然との絆を確かめ合う、眞に人間性を取り戻した姿となることでありましょう。 いのちって何だろう、幸せって何だろう。今回の大震災は私達に今、許されて生きることの意味、いのちの意味を根本から問い直すこととなったのです。


せたな町 延命寺
松崎 清智さん


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2011年6月11日放送

人間はいろいろなものに例えられてきましたが、そのひとつに「石垣のごとし」というのがあります。 自分が生まれてから今日に至るまで、その間に起きたひとつひとつの出来事をひとつひとつの石であると考えるとき、あたかも人間は積み上げられた石垣のようです。 そこには、小さくて丸い石もあれば、大きくて四角い石もあります。 石の色も、自分のその時々の悲しみや喜びに似て、濃いものも淡いものもあります。

私たちは生まれたときから、石垣の石を積むようにして生きてきました。 そして現在、自分の年齢に見合う高さまで、石垣を積み上げたわけです。 さて、あなたの石垣の出来栄えはいかがですか、グラグラしていませんか、穴があいていませんか。 出会う出来事すべてが、私の石垣の石となる以上、いい加減に積める石などひとつもありません。それはまさに自分の人生の石垣です。

道元禅師の教えに「人もし仏道を修証するに、得一法・通一法なり、遇一行・修一行なり。」とあります。 すなわち仏道を修めるということは、「一行に遇うて、一行を修す」ということであります。いま自分が出会うひとつひとつのおこないに対して、それが好きだ嫌いだ、損だ得だという自分勝手な判断をせずに、ただ一生懸命に努力することで、仏道にかなった生き方ができるということになるのです。

人生の石垣の美しさは、色や形だけではありません。私たちは、たとえどんな石でも自分の人生に必要なものとして、両手で大切にいただき、それを丁寧に正しく積み上げることによって、本当に美しい出来栄えの石垣を創り上げてゆきたいものです。


安平町 瑞雲寺
増坂 澄俊さん


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2011年6月4日放送

私は、50歳まで特別養護老人ホームに勤務し、「生老病死」の「四苦」を目の当たりにしながら、役目を果たしていました。 「死ぬこと」を意識せざるを得ない状況にいるお年寄りのお世話をし、200人余りの方の最後を看取りました。多くの方は、老いて、病を患う、自分の心身の現状を認識し、そのことを受け入れて、納得して生活していました。

さまざまな人生の感想を聞きました。「苦労したから幸せだった」「仕事の後にみんなで飲んだ酒はうまかった」「これで良しということはない」などなど。 究極の幸せは、お金や物でなく、ひとに「愛されること」「ほめられること」「役に立つこと」「必要とされること」だそうです。 出会った方々は、そのために『嫌われないように』『怒られないように』『邪魔にならないように』『健康でいるように』そうやって生きてきたからこそ、満足感・達成感を得て、おだやかに「死」を迎えられるようです。

ひとつのことにとらわれず、自分の知識だけが真実と思い込まず、みんなと呼吸を合わせて、十分に力を発揮して、苦労して困難を乗り切ることが「幸せ」となるようです。「楽する」ことは「幸せ」ではありません。 これらのことを、20年余りの勤務のなかで、実習させていただきました。 ただ、これらの「幸せに生きる」方法は、仏教そのものであり、お釈迦様が教えてくださったことです。

仏教を知ることは、「幸せな人生」をおくる、道しるべになります。 お坊さんは、お釈迦様の説いた「幸せに生きる」方法を学んでいます。 お坊さんと話をすることで、「心の荷物」が軽くなるかもしれません。 まずは、お寺の行事に参加して、お話してみませんか。


滝上町 報國寺
久保田 粹穂さん


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2011年5月28日放送

朝起きますと開口一番最初に顔を合わせる人と最初の挨拶です。「おはようございます」皆様はこの挨拶をしていますか?同じ屋根の下にいても中々出来ない人もいますね。今日一日がはじまる時、会う人にやさしくほほえんで挨拶すると廻りの人々もすがすがしい気持ちになると思いませんか?

最近テレビを見ていますとドラマの中の食事の場面で合掌をして「いただきます」と云ってから食事をするシーンを目にします。脚本を書いている人もよく考えていると思いませんか?きっとそれを見た人たちも食事をする時「いただきます」と云って食事をすると思いますよ!!これも食事をする時の挨拶ですね。

私達は口や身や心で物事を行います。口で悪を云い、人をののしり、手足で暴力をふるったりします。それらはすべて私達の心が発信元です。「口は心の影法師」といわれます。ですから心で思っている事が口から出て手足の行動となります。出来るなら心で思ってはいけないこと、口では云ってはいけないこと、行ってはいけないことを思わない様にしたいものです。そうすればきっと廻りの人々、見知らぬ人々にやさしい言葉をかけてあげる事が出来ると思います。廻りの人々はことばの何気ないことをよく覚えています。

云われた人はいつまでも心にしみます。
おはようございます。こんにちわ、いただきます、おやすみなさいと笑顔で挨拶をしていただきたいと存じます。


大空町 禅法寺
鎌田 宏惇さん


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2011年5月21日放送

私は昨年還暦を迎えました。子供の頃の唄で、「村の渡しの船頭さんは今年六十のおじいさん」とありますが、私の子供の頃は六十と言うとおじいさんだったのです。今は高齢化社会と言われており、百歳を過ぎた方が全国で四万人以上おられると聞きます。 皆健康で元気に長生き出来れば幸せですが意に反して様々な老いを迎えます。

檀家さんから、奥さんの様子がおかしいのでお祓いをして欲しいと頼まれました。認知症ではないかと思いましたが、一緒に暮らしている家族、まして長年連れ添ったご主人は受け入れる事が出来ないのではと思い、お祓いをして見守る事にしました。それから何カ月か過ぎ、ご主人もようやく認知症を受け入れ、老々介護が始まりました。夜寝せてくれない事が今一番辛いと私に訴えるので、一人で抱えると重いものでも、たくさんの人にかかわってもらう事で軽くなるから辛い時は辛いと言って助けてもらいなさい。私でよかったらいつでも話を聞くからねと言いました。

私は介護している人に言います、みんな苦しいのは分かっているから聞いてもらいなさい恥ずかしい事ではないんだよと。 もし自分の回りに介護で疲れている人がいたら話を聞いてあげて下さい。聞いてあげる事でその人の癒しになります。 人生どのように終わるか誰も予測がつきません。一日一日を大切に生きるのみです。


稚内市 大徳寺
竹田 俊明さん


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2011年5月14日放送

5月に入り、北海道各地に桜の便りが届く時節を迎えました。今年の桜は、それぞれがいろんな想いで観ていると思います。その想いは、昨年とは確実に違う何かを感じていることでしょう。

「毎年観ているこの桜も、また観ることができた。ありがたい。」「今年もきれいに咲いたなー」「来年もまた観ることができるだろうか」 今まで自分の中で培ってきた知識や財産、技術、社会的地位。それらすべては平和な社会を前提としている現実を改めて実感したことでしょう。 今まではすべてが当たり前に感じ、それが幸せと感じているでしょうが、「生きる」とはどういうことなのか?

お釈迦様は生きることは苦であると説かれました。 人生には色んなことがあります。 楽しいこと、辛いこと、悲しいこと、わかって貰えないこと。 自分の都合で楽しいことばかりを選べるものではありません。

「自分が」という考え方を変えてみて下さい。 そう、無理に主役にならなくてもいいのです。 自分の生き方が他人の役に立っていると思えれば、生きる意味が成り立つと感じませんか?

肩の力を抜いて、執着する心を脱ぎ捨ててみてください。 「なにをしたか」という自慢をするより、その経験でなにを学んだかが大切なのです。学ばさせてもらったと思う謙虚さが大事です。

感謝の気持ちを忘れず「生きとし生ける者が幸せであります様に」と心から念じる生活を送りたいものです。


美幌町 瑞法寺
庭野 徳芳さん


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2011年5月7日放送

ある俳優がデビュー当時、「笑いながら怒る人」という奇妙な芸をしていました。顔はニコニコ笑顔なのですが、口から出てくるのは怒りの言葉なのです。そのテレビの画像を見て、表情と言葉のアンバランスさに妙な違和感を覚えました。やはり、笑顔からはやさしい言葉が出てくるのが自然であり、それは相手の心を和ませてくれます。

私たちの町では「オアシス運動」と称して挨拶運動を展開しています。オアシスのオ、おはようございます。ア、ありがとうございます。シ、失礼します。ス、すみません。これらの言葉を日頃から言えるように心がけようという運動です。

最近は、無縁社会といわれるように人と人との結びつきが希薄になってきています。隣同士でも、同じ地域内でも挨拶をしないという人が多くなりつつあります。 挨拶とは、言葉を交わす、人と人を繋ぐことなのです。そこで大事なことは何においても、まず笑顔。こうすると出てくる言葉、口調も必ず和やかな感じのいいものになります。見知らぬ人であっても、こちらがニッコリ笑って挨拶すれば、きっと相手の方もまたニッコリ笑って挨拶を返してくれます。

そうして次第に知り合いとなり、心が通ってゆくのですから「挨拶」ということが生きていく上でとても大切だということになります。 日頃何気なく行っている挨拶を、いついかなる時もニコニコと和やかな顔で「おはようございます」「こんにちは」と言葉を交わし、毎日を仲良く幸せになるよう努力していこうではありませんか。


函館市 法泉寺
佐藤 孝昌さん


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2011年4月30日放送

私が副住職を勤めていますお寺は、戦後間もない頃、私のおじいちゃんとおばあちゃんが一緒に荒地を開墾し、立ち上げたお寺です。 おじいちゃんは、私が小学校一年生の頃に亡くなりましたので、当時の話を直接聞いた記憶がありませんが、師匠である父から聞いた話によると、二十歳後半から三十歳前半だったおじいちゃんとおばあちゃんが二人して、毎日毎日素手で、一つずつ石を拾ったり、根っ子を起こしたり、今と違ってブルドーザーとかダンプといった機械がありませんので、それは苦難と苦労の連続だったそうです。

今、おばあちゃんはニコニコしているだけで、そんな苦労話をしません。 しかし、ある日、彼女の顔を見て思いました。どんなに辛い時でも、その辛さを顔に出さず、笑顔で人に接してきたおばあちゃん。その皺が刻まれた笑顔こそが「和顔施」なんだと。

「和顔施」とは、平和の和に、顔に、施す、と書きます。文字通り、身近な人に笑顔を差し上げることです。 その笑顔があるだけで、その場にいる人たちの心も和んできます。そんな笑顔の人が皆さんのまわりにいませんか? どんな時でも笑顔でいることは、難しいことです。 けれども、笑顔を貰ったひとは、次の人に笑顔を差し上げてみてはどうでしょう。 池に投げた小さな石でも、波が大きく広がっていくように、笑顔の波が広がっていくはずです。 私はそんなことをおばあちゃんの笑顔に教わりました。


札幌市 豊龍寺
宮田 任宏さん


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2011年4月23日放送

年が明けて、もう四月の末ですね〜。時の経つのは遅いようで早いものです。 昨年を思いおこせば、あの暑い夏はいつしか去り、今年、新年を迎えては、三箇日が過ぎてから石狩や札幌は大雪が降り、除雪作業に奮闘しましたけど、もうすぐ五月の節句も近くなり、いよいよ春の到来です。

私の好きな禅語に日々是好日という言葉が御座います。字を見れば毎日が大安吉日と言う意味になりますが、残念乍ら大概は自分の都合に反して物事が進むことが多いように感じます。
でもそんな毎日ではありますが、怒ったり、喜んだり、泣いたり、笑ったり、楽しんだり、苦しんだり、悲しんだりして、かけがえのない時を生きて居るんだな〜と感じます。

高校時代、昭和五十三年頃、山口県のお寺に入り小僧修行をしながら高校へ通っていた頃の話ですが、朝のお勤めの後に、お寺の和尚さんがよくお話をして下さいました。和尚さんから「人生は、限り有るものだから味わって生きなきゃいけないよ。」と言われたことが今でも心に残っています。

今日と言う日、平成二十三年四月二十三日も一度しかない一日ですね。どうぞ精一杯、楽しんだり、怒ったり、悲しんだり、笑ったりして味わってみて下さい。その中に日々是好日が有るような気が致します。


石狩市 龍徳寺
奥山 千成さん


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2011年4月16日放送

私は、今から十年前、インドへ旅行に行きました。約十ヶ月の個人旅行で、社会との繋がりや培った人間関係を一時的に保留した、誰ひとり知人の居ない土地への長い旅行でした。インドでは、それまでにあった常識が通用しない事も多く、買い物の時、値札がなく、毎回値段が違うといった小さな事から、バスに乗った時ぎゅうぎゅうの車内をターバンの男が私の頭を踏みつけて歩いて行くといった大きな事まで、様々な文化の違いに直面するたび、世界の広さを思い知らされました。見た事のない景色を見、感じた事のない空気を感じる事が出来る。本当に強くこの世に生まれて来て良かったと思いました。

と同時に親への感謝の気持ちが込み上げました。この世界に自分が自力で生まれた訳ではない。産んで頂いた、そしてご縁を頂いたのだと。ひとりになってみて、ひとりではない事に気が付きました。無数の因縁により両親が私に命をくださった。
私のご先祖様のどなたかが少し違うだけ、又、それまで私の育った環境が少し違うだけでもこの結果は生まれていません。この奇跡とも言うべきご縁に、ただただ感謝するのみです。

私が今ここでお話しさせていただいている事もご縁ですし、皆様が今、お聞きになられている事もご縁です。このご縁に感謝し、お互いに少しでも良き結果をもたらす事を願いつつ本日のお話とさせて頂きます。


札幌市 北大寺
大波 奨躍さん


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2011年4月9日放送

今年は三月に入ってもなかなか暖かくならず、とても寒くて雪の降る日がとても多かったですね。冬が長い北海道に生活している私たちは、毎日のように「もう雪はいらない。早く春になってくれよ。」って愚痴をこぼしたりします。 そういえば昨年の夏は記録的に暑い日が続いて、「暑いのは嫌だ。涼しくなってくれよ。」って愚痴を言っていたことを思い出しました。私は、その時々に向き合おうとはせず、逃げてばかりいたのでした。皆さんはどうですか。 では、「寒いとき、暑いときをそのまま逃げずに受け止めるにはどうすればいいのでしょうか。」

昔、修行僧が、洞山和尚に問いました。
「寒いとき、暑いとき、どのようにすれば苦しみから逃れられるでしょうか。」
洞山和尚が言われた。
「どうして、寒くないところ、暑くないところに安住しようとしないのか。」
僧が重ねて問われた。
「いったいどこに寒くもない、暑くもないところがあるのでしょうか。」
洞山和尚は言われた。
「寒いときには、あなた自身が寒さと一つになりなさい。暑いときには、あなた自身が暑さと一つになりなさい。」と答えました。苦しいことから逃れようとせず、苦しさの中にとびこんで、一つになりなさいと教えてくれたのでした。

今、大震災で被災された、数十万の人々が大切な家族や家を失い、厳しい現実に耐えて必死に生きています。その姿こそ、洞山和尚が教える生き方なのです。この生き方は、困難を乗り越え人生を切り開いていく原動力です。人生の苦しみに耐えている、被災された方々とともに、この苦しみを乗りこえていきたいものであります。


北広島市 龍仙寺
清水 常雄さん


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2011年4月2日放送

さきごろ、大学入試で携帯電話を使用してのカンニング事件が起き、大騒ぎになりました。犯人とされた受験生は「授業料の安い京都大学に入って、母親を安心させたかった。」と供述していました。聞くところによると、父親が亡くなり母ひとり子ひとりの家庭とのこと。カンニングは悪い行いではありますが、この母子の心情を思うと、まことに気の毒な気持ちで一杯になります。

この「まちがった親孝行」は、「親のことを思うあまり」の行いであります。私たちは同様のあやまちをたびたび繰り返しています。たとえば、わが子を思う一心で、他人の子を殺めた事件がありました。また、「お国のため」という崇高な理想を掲げて戦争をしたこともあります。

昔、中国に、インド伝来というお釈迦さまのお骨を、昼夜礼拝する男がおりました。 この男に、あるお坊さんが言いました。「お前が拝んでいるのは、毒蛇だぞ。」と。すると男は、「それでは、尊いお釈迦さまのお骨を見せてやる」と、意気込んで骨壺の蓋を開けて見ると、なんと!壷の中には毒蛇がトグロをまいていた、ということです。

このことは、おのれが良かれと思って執着していると、とんでもない間違いをおかすこともある、という教訓であります。
春、四月。あらためて、自分自身の行いと心を見つめなおし、正しい道を歩みたいものであります。


新篠津村 光明寺
藤原 重孝さん


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2011年3月26日放送

日本曹洞宗の開祖は道元禅師様です。道元禅師様は、幼くして父母を亡くし、世の無常を感じ、十三歳の時出家されました。 道を求める心が、やがて禅師様を中国大陸に渡らせ、悟りを開かれる導線となったのです。 ただひたすらに座禅をする事を弟子達にすすめ、自らも厳しい修行をつまれたのです。 その道元禅師様は、京都において五十四歳でこの世を去られました。

その時から十五年後にお生まれになられたのが螢山禅師様です。道元禅師様の三代あとのお弟子様です。お父様は仏縁深きお方、お母様は観音信仰のあついお方でした。 座禅の実践を主としながら、広く布教を行い全国に多くの弟子をおもちになり、教団発展のいしずえを築かれました。そのお弟子様達に見守られながら五十八歳で生涯をとじられました。

道元禅師様が開かれた福井県の永平寺、螢山禅師様が開かれた横浜の総持寺。共に大きなお寺です。 お釈迦さまのお教えをお伝えし、仏様の為、人々の心の安らぎ、よりどころとなるように、ここを両大本山とし、おふたりの禅師様を両祖として、お慕い申し上げているのでございます。

いつの時にも、静かな心にて南無釈迦牟尼佛とお唱え致しましょう。


小樽市 円竜寺
桑田 竜二さん


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2011年3月19日放送

皆さんは、次のような言葉を聞いたことがありますでしょうか。

「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、悟りよ、幸あれ。」

これは、仏教を代表するお経の『摩訶般若波羅蜜多心経』・『般若心経』の終わりのダラニ「羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提、薩婆訶。」の部分を訳したものです。

〈彼岸〉とは、我々のいる(迷いの世界)を、こちらの岸=此岸としたときの、仏様のいる(悟りの世界)、向こう側の彼の岸のことをいいます。 彼の岸へ渡るために、お釈迦さまの時代から(六波羅蜜)といわれるものがあります。
その一は、(布施)。皆さんの知っている、お金や物、いわゆる(お布施)だけではなく、笑顔ややさしい言葉、心をこめて仕事をすることも(布施)になります。
その二は、(持戒)。大事な規りや約束を守ることですね。
その三は、(忍辱)。世の中のどんな苦しみにも、耐え忍んで負けないことです。
その四は、(精進)。自分が正しいと思うことに、一生懸命に勤める。
その五は、(禅定)。心静かに座ること。特に坐禅をお勧めします。
その六は、(知慧)。今までの五つの波羅蜜によって得られるものであり、この知慧によって、他の五つが完成する、すなわち、六波羅蜜は六つに分けて説明しましたが、一つのことです。

もうすぐ、お彼岸のお中日です。彼の岸にいらっしゃる、仏様・ご先祖様と同じ気持ちになれるよう心から念じましょう。


芽室町 東光寺
渡部 晃誠さん


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2011年3月12日放送

最近、孤独死の増加、大切なはずのわが子を虐待する親、更に所在不明の高齢者が存在していたり、自分の親と何年も会っていないと平然と答える人がいたり、最悪は親の遺骸を放置したり隠していた人がいるという実態が明らかになり、無縁社会といわれる現代社会の実像の報道に触れる度に、最近の日本での人間関係に明るい未来の展望を感じることができません。

今一度、自分の生命のあり方を考えなければなりません。 私たちの今ある生命は、全て尊い縁を頂戴している生命であります。物やお金だけでは手に入るものではありません。つまり私たちは決して無縁ではないのであります。 「袖すり合うも多生の縁」、「袖の振り合わせも五百生の機縁」と古来より言い伝えられてきた様に全て縁に依って成り立っている生命であり人間関係であります。

あまりにも自分勝手な気ままな考えや、欲深い心に依って人間関係を断ち切り、現代社会の実態になっているのではないかと思います。 自分の生命は、ご先祖さまからつながっている縦の線と様々な人や物、自然の恵みとつながっている横の線に結ばれているのであります。きちんと結ばれているからこそ安心していられるのであります。その縦横の線は簡単には切れない、あたかも鉄でできているような固い線であります。

まもなく春のお彼岸を迎えます。ご先祖様、親に、自然に感謝の合掌を「ありがとう」の想いを添えてささげたいものであります。


剣淵町 神龍寺
松井 宏文さん


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2011年3月5日放送

今日は皆様に、私が日頃大事に思う言葉をご紹介したいと思います。
それは「隋処に主となれ」という言葉です。
隋(ずい)とはしたがう、まかせるという事。処(しょ)とはところ、場所の事です。隋処とは、いたる所、どこでもという意味になります。
主となれというのは、これは我が人生の主人公といってもいいでしょう。
その人の生きている場所がどうあれ、環境や立場がどうあれ、四苦八苦のまっただ中にあっても、常に長い人生ドラマの主人公となって、毎日ドラマを見ている世の中の人々に、勇気や元気、明日の希望を与えられるように暮らせという事です。

ただし、主人公といえども、自分のわがままどおり、思いどおり生きる事ではいけません。 監督やプロデューサー、様々な役割を受け持っているスタッフ。 これをたとえるならば、お釈迦様や菩薩様方の教え。その他大勢の脇役、これをたとえるならば、親子、家族、地域の人々や仲間達でしょう。 皆と一緒に素晴らしい人生ドラマを創り上げていってほしいと思います。

私もラジオを聴いている皆様も、いつかはお別れしてしまう身でございます。 残された方々に思い出深く、手を合わせてもらえる様に、自分の身と心と口を慎み、清らかに気高く精進しておくらし下さい。 心よりお祈り申し上げます。


網走市 法龍寺
加藤 法海さん


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2011年2月26日放送

ひとは言葉によって、自分の考え、気持ちを相手に伝え、相手の言葉を受けて心のうちを理解することが出来ます。 「おかげさまで」「すみません」「ありがとうございます」など、殺伐とした世相であるほど、心を落ち着けて、言葉を考え直してみる必要があり、使い方によってはプラスにもマイナスにもなります。

道元禅師さまは「愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり」つまり、限りない慈悲心に根ざすもので、その心から発する言葉の大切さを言っておられます。 たとえば赤ちゃんを可愛いと思う心での挨拶や、その人のことをおもいやった言葉掛けをすることで、ひとの心をやわらげ、癒すことが出来るのです。

このように考えますと、言葉はその人の心を写し出す鏡のようなもので、善い心の時は善い言葉になり、邪心の時は悪い言葉となり、簡単に人を傷つけたりします。言葉ひとつで人は一喜一憂するのであります。人を奮起させるのも、悲しませたり、落ち込ませたりするのも言葉であります。 愛語は、自らが仏や菩薩となって発する言葉でなければなりません。

さらに禅師さまは、そのところを「愛語能く廻天の力あることを学すべきなり」と示しており、愛語は天地世界をも動かす力があることを知る大切さを重ねて強くおさとしになっておられます。

「言葉は人なり、人は言葉なり」というように、その人の発する言葉でその人のこころが分かるのです。明るい人間関係は愛語からであり、常に愛語のキャッチボールを日々の生活の中で心がけるよう努力したいものです。


阿寒町 西来寺
廣瀬 明生さん


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2011年2月19日放送

最近のニュースの中で自殺や殺人といった報道を聞かない日はありません。特に親が子を殺し子が親を殺すといった血縁の中での殺人が増えた事には驚くばかりです。もし人生の中で命の尊さを感ずる場面に出会っていたらその状況も変わっていたかもしれません。

私の町では昨年関東の大学生を対象にした体験研修旅行の団体を迎えました。学生達が漁師さんや酪農家さん達と同じ仕事を共にしてもらう体験ツアーです。小さい頃から酪農を夢見ていた女子学生は、わずか2、3日世話をしただけの子牛が業者に売られて車に乗せられて行くのを直視する事が出来ませんでした。その学生にとってはただ生き物の世話をするだけだと思っていたのです。しかし、初めて命が売られていく現場を体験して命の尊さや命を頂いて生きている自分をあらためて考えたのではないでしょうか。受け入れ先の酪農家さんは「人間は動植物の命を頂いて生きている、生かされていることを伝えていきたいし体験してほしい」とおっしゃっていました。

「頂きます」、「ご馳走様」という言葉の意味をわかっていても、こういう経験をすることで本当の意味で心深く刻まれ、そこから「有難う」の感謝の気持ちも生まれてきます。学生さん達は命の体験という何物にも代え難い大きなお土産を持って帰っていきました。

このように命は自分だけのものではなく全てのものの命とつながって成り立っています。生かされている自分をはっきり認識して一瞬一瞬を大事にできるようにしたいものです。


浜頓別町 天祐寺
橋本 英晃さん


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2011年2月12日放送

私のお寺は、日本海沿岸の小平町の鬼鹿という集落にあります。昭和の三十年頃までニシン漁で栄えていましたが、今は、ニシン番屋のみが当時の栄華の名残を留めるだけです。その番屋から程近いところに小さな地蔵堂がひっそりと建っています。この地蔵堂にまつわる不思議な因縁が、地元で語られています。

明治の初め、津軽からヤン衆を乗せてきた船が、鬼鹿沖で遭難しました。船は沈没を防ぐために積荷を海中に投げ捨てましたが、その中に「かぐらさんぼうず」というものがあって、浜に流れ着きました。「かぐらさん」というのは、太い柱の軸にロープを巻きながら物を引くウインチのような道具のことで、その軸を「かぐらさんぼうず」といいます。当時ここでニシン漁をしていたヤン衆たちがこれを見つけ、何度、海中に捨てても、同じところに打ち寄せて来たそうです。

そうしたある晩、この「かぐらさんぼうず」がヤン衆の親方の奥さんの枕元に立って、自分を地蔵としてお祀りしてくれるように願ったということです。奥さんは早速お堂を建ててお祀りし、供養しました。それ以来、鬼鹿はニシン漁の千石場所として栄え、地蔵堂は多くの人が参詣するようになりました。お堂は幾度か火災に遭いましたが、お地蔵さんはそのたび無事であったといわれています。

そして今に至るまで地元の人の厚い信仰を集め、毎年、旧暦の地蔵盆にはお地蔵さんになった「かぐらさんぼうず」の供養祭が行われています。


小平町 興聖寺
仙石 景章さん


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2011年2月5日放送

私は、昨年8月上旬、まさにお寺にとってはお盆が近い多忙な時期でしたが、静岡県・朝霧高原で開催されたボーイスカウト日本ジャンボリー大会のお手伝いをして参りました。

この大会は中学生年代を中心とし、国内外より約2万人の子供たちが4年に一度集結する大規模なキャンプ大会です。このボーイスカウト活動は野外活動を通じて、幼稚園から大学生年齢まで、各年代に応じたプログラムで、社会奉仕や様々な習得訓練をしています。

そして、他の活動と違うことは、必ず宗教心をもって、「明確なる信仰をもつ」ことをすすめております。ですから多くの宗教関係者がこの大会に参加致しました。
普段から私共の仏教ばかりでなく「神道」「キリスト教」などのそれぞれが子供たちに「宗教・信仰心」を育てるお手伝いをしていますので、一週間の大会期間、広大な会場の中に信仰奨励のために各宗教宗派による「展示・祈りの場」を設けました。私達の曹洞宗はテントの中にご本尊を祀り、お話と参加者に椅子坐禅を体験してもらいました。日本の子供たちばかりでなく、海外の青少年にも大自然の中での椅子坐禅は良い経験になったようです。

昨今「宗教イコール高齢者」という流れがありますが、子供の頃からこそ、大人と共に宗教に親しみ、日常生活において「仏壇に手を合わせる」「法事、お寺詣り、お墓参りに出かける」などの宗教行事に積極的に関わりをもたせたいものです。
それが「感謝の心をもつ」と同時に「明確なる信仰」を持つことの一歩に繋がるのではないでしょうか。


美唄市 東禅寺
谷口 哲章さん


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2011年1月29日放送

以前、あるお檀家のおばあちゃんとお話をする機会がありました。
 「副住職さん、私は主人が亡くなってから長いことたつけど、毎日主人と私なりに会話しているんですよ」と言ってきたのです。
 私は「どういう事ですか?」と聞いてみますと、
 「私は毎日ご飯をお供えしてお参りをするんだけど、お参りをするときは、必ずお線香をお供えして静かに手を合わせるの。すると日によってお線香の煙の昇り方が違うんですよ。すーっと1本線のような煙は、主人が機嫌の良い日。煙がくねくね曲がる日は、主人が機嫌の悪い日と決めてるの。だから自分の息や仕草で煙が動かないように、気をつけて心静かに手を合わせるの。機嫌の悪い日は大変なんだよ。位牌に向かって機嫌が良くなるようにたくさん話しかけないといけないから。でもね、毎日の楽しみなんだよ。」と笑ってお話しされました。

私はこのお話を聞いてとても心が温かくなったのと同時に、曹洞宗の開祖 道元禅師様が幼少のころ、亡き母の葬儀でお香の煙を見て、無常の心を感じたという話を思い出し、そのことをおばあちゃんに伝えると、「道元禅師様と一緒にされては申し訳ないわ」と笑っておられました。

皆さんもお仏壇の前で、お線香をお供えして心静かに手を合わせてみましょう。 もしかすると、道元禅師様のように、普段気付かない何かに気付くかもしれません。 または、おばあちゃんのように、ご先祖様がより近いものとなり、より太い絆で結ばれるかもしれませんね。


深川市 大玄寺
横山 信光さん


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2011年1月22日放送

昨年の二月、定年直後のご主人を亡くされたお檀家様の奥様がおられます。
 中陰のお参りに伺った時、祭壇の横で呆然としていました。 「定年し、これから旅行に行こうと言っていたのに、悔しくて悔しくてどうにもならない」との事でした。毎週お参りに行くと、その都度、寂しくて、悔しくて何をする気にもなれないと嘆く奥様です。

ある日、ご本山 永平寺の修行僧のことをお話しました。「ご開山様をお守りしている霊廟では、お仕えしている雲水さんが今でも毎日お経を上げて、朝をお知らせします。今ここに居られるがごとくに、ご木像に洗顔し、お食事を差し上げる事を続けているのです。今のように毎日外にも出ないで、ご飯も作れない生活を続けていたらお父さんに怒られますよ。お父さんの好きだった料理を作ってあげたり、お水を替えたり、話しかけたり、今ここに居られるが如くにお世話をしてあげたらいいよ」と伝えました。

四十九日法要の日、奥様のお顔に表情が戻っていたのを見た時、ホッと安心いたしました。同居しているご長男も元気にもどってきたお母さんをみて喜んでおられました。

大切な方を亡くされた時、つらく悲しい気持ちになりますが、私たちは合掌の中で、ご先祖様、仏様と日々の生活の中で共に仲良く暮らして行きたいものです。


美唄市 大安寺
東松 弘敏さん


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2011年1月15日放送

あと一年の命と告知された男性が入院をしていました。

彼は医師の告知に愕然とし、「一体自分の人生は何だったのか」と嘆き、医師や看護師のみならず周囲の患者やあらゆる人に当たり散らし、恨み、病院で持て余され、孤独な入院生活を送っていました。病院の依頼を受けたカウンセラーは「今まで社会貢献や人に親切にしてきたのは何のため」と彼に尋ねました。彼は答えました。 「楽しい老後を過ごし、皆に愛され、感謝され、多くの人に看取られながら息をひきとることが夢だった」と。そこでカウンセラーは言いました。

「残念なことですが、あなたが描いていた老後の楽しみは実行出来ない状態です。どう生きてきたかではなく、どう生きたいのか考えてみませんか。残された一年を愛されて過ごし、あなたの望み通り感謝されながら息をひきとるか、今のまま周囲の人に当たり散らし、孤独で悲嘆にくれ、不運を恨みながら死んでゆくか、どちらの生き方を選択しますか、どの選択もあなたの自由、あなたの人生です」

その後、この男性はこれまでお世話になった人達を病院に招き感謝の気持ちを伝え、周囲の患者達を勇気づけ、愛され感謝され一年半後に多くの人に看取られ、惜しまれながら亡くなりました。

どんな不運に遭っても、あわてることもない、騒ぐこともない、あるがままに受け入れ、心乱すことのない仏心を修行し、二度とない人生を悔いなく生きたいものです。


例話は貯広委通信 ライフマネジメント研究所長 稲岡真理子さんの随想より

浜頓別町 天祐寺
橋本 俊弘さん


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2011年1月8日放送

新年も松の内が終わり、日々の生活に落ち着きを取り戻した頃でしょうか。
 新年を迎えて、新たな目標や決意をされた方も多いことでしょう。

私の今年の目標は「忙しくしない」です。 「忙しくしない」というのは、少し仕事を減らして遊びたいとか、自分の時間がもっとほしいとかそういうことではないんです。

「忙しい」という字は、りっしんべんに亡くすと書きますね。りっしんべんとは人の心を表します。ですから忙しいということは心を亡くすということを意味します。忙しくしないということは、どんな時もまごころを持っていどむということです。
 仕事にしても人との付き合いにしても、心を亡くしてしまってはうまくはいきませんね。そのひとつひとつのことに心を持って接すれば忙しくなくなる。ですから私は忙しいという言葉を使わないようにしてるんです。そういう時には「やることが多くて」と言うようにしてます。そうすればやることは相変わらず多くても忙しくはなくなる。物事ひとつひとつに対して真心を持って接することができると思っています。

心がまっすぐになれば行いもまっすぐになる。行いがまっすぐになれば言葉もまっすぐになる。忙しくしないという決意を胸に、今年一年精進してまいりたいと思っています。皆さんも忙しくない日々を心がけてみませんか。


岩見沢市 孝禅寺
安彦 智峰さん


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2011年1月1日放送

今年もまた「曹洞宗の時間」を宜しくお願い申し上げます。
 年頭に当たり、世界平和と人類の幸福を心からお祈りいたします。

さて、今回はウサギ歳。昔、道内にはたくさんの野うさぎがいましたが、最近はめっきり見かけなくなりました。ウサギが減った理由は、棲家となる野原の減少であるとか、北キツネの増加、あるいは外来種のアライグマの繁殖などがあげられていますが、本当の理由はよくわからないそうです。

ことわざに「ウサギ死すれば、キツネこれを悲しむ」とあります。同類の不幸を縁者が悲しむ例えです。これは、同類の死は、やがて我が身にもふりかかる、ということをいみしています。食物連鎖をみても、この世にあるすべての動植物は互いに持ちつ持たれつの生活をしていることがわかります。仏教ではこれを「因縁」あるいは「縁起」といいます。現在では、因縁をつける、とか縁起がいいというふうに使われますが、正しくは存在の真理を示している言葉であります。

私は、あなたがこのラジオを聴いてくださっているからこそ、今ここで話をすることができるのです。
 そして私には、家族があり、近所の方々があり、共に仏道を歩む友があります。それだけではなく、数限りない多くの人々に支えられて、今があるのです。
 生きとし生けるもの全てが、共に生きる喜びを分かち合えるような世界を実現したいものであります。


曹洞宗北海道教化センター
統監  藤原 重孝


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