法  話

HBCラジオ「曹洞宗の時間」(毎週土曜 午前6時15分〜6時19分)にて放送された、
北海道各地のご住職の法話を掲載しております。
また、実際にラジオで放送された音声データの配信も行っております。

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2010年12月25日放送

今年も残り少なくなってきました。皆さんは来年はどんな一年を過ごしていきたいでしょうか。 お釈迦さまの教えにそって生活していく四つの方法が、修証義というお経の中に書いてあります。「布施」「愛語」「利行」「同事」今日はその中の布施についてお話ししたいと思います。

この布施というのは、あまねく与えるという行為です。お経をお唱えしたり、ご詠歌をお唱えする法施(ほうせ)。骨身を惜しまず人に尽くす身施(しんせ)。経済的に援助をする財施(ざいせ)。そしてお金に換算したり、物で代換できない絶対的な布施の行いを無財施(むざいせ)といいます。これは、やさしい笑顔であったり、心くだいた言葉であったり、座席を譲ることであったり。すべてがかけがえのない布施の行いなんです。
 人のために時間を使うというのは立派な布施なんですね。

わたしは年をとっているので、何もしてあげられない、自分のことで精一杯で何もしてあげられないっていう人もいるかもしれませんが、何でもいいんです。声をかけてあげることも立派な時間の使い方だと思うんです。
「ありがとう。ごくろうさま。すみません。」
それすらなかなかはずかしいという人は、靴をそろえてあげることだって立派な時間の使い方だと思います。

そして、後に続く若い人たちに、「あんなふうに年をとりたい」「ああいう年のとり方っていいな」って思ってくれるような生き方ができればすばらしいですよね。
 時間とは、人のために用いれば、豊かな喜びが与えられるものだと思います。そんなことを私は来年の目標にしていきたいと思います。
  皆さん、どうか良いお年をお迎え下さい。


遠軽町 祥巌寺
中村 祥嗣さん


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2010年12月18日放送

福井県の永平寺をお開きになりました道元禅師さまがお書きになった「正法眼蔵」という書物のなかにこのようなお言葉がでてまいります。

「生を明きらめ、死を明きらむるは仏家一大事の因縁なり」

「明きらめる」というのは物事をはっきりさせるという意味です。ですからこの言葉は「生」生まれてくることはどういうことかはっきりさせる。「死」死ぬということはどういうことかはっきりさせる。

ここには実は2つの文字が省略されています。「老」と「病」です。「老」年をとるということはどういうことかはっきりさせる。「病」病気になるということはどういうことかはっきりさせる。
 それが「仏家」。「仏家」とはお釈迦さまの教えを聞くもの。そのお釈迦さまの教えを聞くものにとって一番「大事」なことなのだ。という意味になります。

「生老病死」という言葉をお聞きになったことがあると思います。この「生老病死」をお釈迦さまは「四苦」と申しました。四つの苦しみと書きます。「苦」という漢字から私たちは、肉体的にも精神的にも痛い、苦痛だというイメージが思いうかぶでしょう。ではお釈迦さまはこの「生老病死」を苦痛であるとおっしゃったのか。

お釈迦さまがおっしゃった「苦」というのは、「自分の力ではどうにもならないもの」という意味です。ですから「生まれることも、年をとることも、病になることも、そして死んでゆくことも、自分の力ではどうにもならないもの」である。そのことに気づき、そのことを真正面から受け止めることが、私たちには大事なことなのだ」というのが冒頭の道元禅師さまのお言葉の本当の意味です。


増毛町 海音寺
谷 寛龍さん


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2010年12月11日放送

人を思いやり温かい言葉をかけることを「愛語」と言います。悲しんでいる人に声をかけてはげますとその人は元気になります。すると不思議にも自分自身も嬉しく幸せになります。でも、言葉をかけなくても他人に幸せを与えることが出来ます。

私は時折、飛行機を利用して出張、また旅をすることがあります。飛行機に乗る時、その日担当のスチュワーデスがお客を迎えてくれます。飛行機に乗って空高く舞い上がり気候変化も有り不安な心で乗る方もおられる中で、非常にやさしいまなざしで人々を迎えてくれるその姿は言葉を発しなくても、そのまなざしを見れば親切な心が伝わってきます。
 これを「眼施(がんせ)」目のほどこしと言い、これもやさしい言葉です。

朝、学校・幼稚園に登校の折、私達は父母の立場で交通安全実施の為にと交通指導を行うことがあります。
 指導の折に子供さんに「おはよう」と声をかけて、「おはようございます」と明るい声が返ってきます。特に年少の児童の声は明るく「今日一日もがんばるよ」と聞こえます。

「和顔愛語」穏やかな、やさしいまなざしとともに、心の底から人を思いやり、また言葉をかけることは、私達が毎日毎日出来ることです。ご家庭でも朝のあいさつから一日が始まります。

愛語の実践をおこないましょう。人に語りかけ明るい顔、ほほえみをもって共に生きる生活は私達の幸せだと思います。


訓子府町 常照寺
中條 寛道さん


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2010年12月4日放送

12月は、お釈迦様が長い修行の末、菩提樹の下に座り、七日間座り続けてお悟りを開かれたことから、曹洞宗の多くのお寺で、一日中、坐禅をする、摂心(せっしん)という坐禅会が行われています。
曹洞宗では、「身を正しくして、ただ、ひたすら坐る」という教えを大切にしています。そこで今日は、皆様に坐禅を体験していただきます。

まず、座布団をご用意ください。
座布団を二つに折り、お尻の下にひきます。
次に、右の足を左の股(もも)の上に深くのせ、左の足を右の股の上にのせます。
背筋をまっすぐにのばします。顎を引き、頭で天をつきあげるようにすると、背筋がまっすぐになります。
右の手のひらを上に向け、組んだ足の上に置き、その上に左の手のひらを、同じように上向きにして置いて下さい。両手の親指の先を、かすかに合わせます。
視線は、およそ1メートル前方、ななめ約45度の角度におとして、よそ見をしてはいけません。
きれいに姿勢が整いました。

次に呼吸を整えます。
深々と息を鼻から吸い込み、これを徐々に口から吐き出します。
この深呼吸を数回行った後は、自然と鼻からの呼吸にまかせます。
舌の先を、上の歯の内側の付け根にあて、口を閉じます。
足を組むのが苦手な方は、椅子に浅く腰掛け、背筋を伸ばし、呼吸を整えてください。
このように体を整えることで、心を整えることができます。

坐禅をすることで、身も心も安定し、正しい自分の姿を形作ることができるのです。正しい自分の姿とは、仏様のお姿です。
毎日の生活でも、坐禅をしていたときの静かな心で、仏様の心で過ごすことが大切なのです。

12月8日はお釈迦様がお悟りを開かれた、成道の日です。
お釈迦様に思いを馳せ、坐禅をしてみてはいかがでしょうか。


松前町 法幢寺
木村 清憲さん


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2010年11月27日放送

私達は、いつも幸せでありたいと願い、幸せを求めて生きています。 また、自分は幸福ではないと思い、幸福をどこまでも追い求め、他の人と比べていまだに不幸だと思って生きているのも私達の姿であると思います。 今、「断・捨・離」といって「断つ、捨てる、離れる」という物質的な幸せを見つめ直すことが静かなブームとなっております。

お釈迦様は『吉祥経』というお経の中で私達に幸せの道を説いておられます。その中で

深い学識があり技術を学び身につけ、身をつつしむことを学んで、正しく話をすること
父と母によく仕え、妻と子を愛し護り、仕事を毎日狂いなく行うこと
他人に、物であれ精神的なものであれ何かを与え、教えに従い正しく行い親族を愛し護り、人から非難を受けるようなことをしないこと
悪しきことを離れ、悪しきことから遠ざかり、飲酒を慎み、徳を積むことを怠らないこと
尊敬と謙遜と、不満を抱くことなく恩を知り、時に応じて教えを聞くこと

などの教えが示され、これらのことを行い実践すれば幸福を得ることができると結んでおられます。

道元禅師様は、「陰徳を積み仏法僧の三宝に対し、心の内に信仰心をもって礼拝すれば、必ず目に見えた幸せをいただくのである」と示されました。 今、私達にとって本当の幸福の道はどこにあるのか、静かに考えてみたいと思います。


愛別町 金剛寺
篁 文雄さん


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2010年11月20日放送

この春、京都の清水寺にふすま絵の大作を収めた画家、中島きよしさんは、幼い頃父親に捨てられ、母親の手一つで育てられました。しかし、その母親とも18才の時に死別します。天涯孤独となった彼は高校卒業と同時にいろんな仕事をしながら独学で絵の勉強をしました。

ある時、父親が病に臥せていることを風の便りに聞くのですが、自分は父の死を聞かされても、きっと絵筆は離さないだろうと予想しておりました。それ程、母と自分を捨てて、自分勝手に生きてきた父親には強い憎しみを抱いていたといいます。

ところが、それからしばらくして父親の訃報に接するや、絵筆を持つ手が震え、心は動揺し、まったく仕事が手につかなくなってしまいました。意を決して父親の下に向かい、遺体の置かれた部屋に入って驚きます。いたる所に自分の絵が貼ってあったのです。それを見て初めて父親の想いを知り、涙がとめどなく流れてきました。そして父親に対する見方も変わったといいます。

今では、父親への「いかり」や「憎しみ」がエネルギーとなって自分に絵を書かせてくれていたのだ、と思えるようになり、感謝の念すら湧くようになった、と語っております。 「生命は死んでもなお、輝いているものですね」と静かに語る姿が私の心に焼きついております。 憎しみの情が創作活動のエネルギーに昇華されていたことに自ら気づいた中島さんには、大切な何かを教えていただきました。


蘭越町 玉峰寺
田澤 豊彦さん


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2010年11月13日放送

皆さんは、履物をきちんと揃えていますか?
先日、お寺の法要でトイレに行きますと、スリッパが脱ぎ散らかされていました。 揃えておりますと、年配の方が急いで用を足したい様子でしたが、スリッパが散らかっているのを見て、「この急いでいる時に」とかなり怒り気味にスリッパを互い違いに履いて、用を足して出て行く時は「あーすっきりした」とスリッパをバラバラに脱いで行かれました。

人は、他人に厳しく自分に甘いという自分勝手なところが多々あるのではないでしょうか。 これも一つに忙(せわ)しない現代社会だからでしょうか。

仏教の言葉に「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」があります。脚下を照らし顧みると言う意味です。 服装は足元からとよく言いますね。脚下が汚れていたりグラグラしていると、身も心も落ちつきませんよね。 この現代社会だからこそ、脚下をしっかりさせて心にゆとりを持ち、トイレなどでは、次の人の事を考えてスリッパを揃える優しさを持ちたいものですね。 一人一人が心にゆとりと真心を持つならば優しい明るい社会をつくれるのではないでしょうか。

あなたの今脱いだ履物、大丈夫ですか?


福島町 諦玄寺
大津 大雄さん


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2010年11月6日放送

外国を旅行して食事をする時に、高級レストランや一流の料理店に入ると、テーブルに灰皿が置かれておりません。日本人がタバコを吸おうと思い、灰皿がないので店員に頼む。すると店員は「喫煙はできません、食事がすんでから、どうか他の所でなさってください。」と言われます。これはなにも嫌煙権運動やエチケットの為ではありません。なぜ喫煙してはいけないのか。その理由は料理がまずくなるからです。

料理人は最高の条件で料理を味わってもらおうと、一所懸命に腕をふるって料理を作ります。それをタバコで舌や喉を変に刺激するとせっかくの料理が台無しになります。食事の時の喫煙は本来してはならないのです。

大本山総持寺の御開山、螢山禅師様のお言葉に「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」とあります。「お茶を飲む時はひたすらお茶を飲みなさい。ご飯を食べる時はただご飯だけ食べなさい」という意味です。お茶やご飯が出されたら、おいしくいただく。なんだ、あたり前のことではないかと言われそうですが、螢山禅師様はそのあたり前のことが大切であると教えておられます。

でも私達はそのあたり前のことがなかなか出来ません。ご飯を食べながら、あれこれくだらない事を考えたり、新聞を読みながら、テレビを見ながら食事をしています。あたり前の事、平凡な事をちゃんとやる事がとても大切なのです。まずテレビを消して新聞を読まずに食事をする事から始めましょう。


函館市 道了寺
武山 昌孝さん


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2010年10月30日放送

釧路は、天然記念物の丹頂鶴の生息地で、その美しい姿は、地元のみならず多くの観光客の目を楽しませてくれます。昔から、亀と共に長寿の動物としておめでたいものとされてきましたが、とても夫婦仲がよく、一度一緒になりますと生涯を添い遂げるそうでございます。

私は、婚礼の席で挨拶を頼まれますと、「めぐりあいの不思議さに重い責任を感じていただきたい」とお話します。生まれや育った環境や性格も体質も夫々(それぞれ)違う二人がめぐりあい、お互いにこの人を生涯の伴侶と認めて夫婦となり、やがて子供が出来、家庭というものが確立され、ある時は楽しい大きな笑い声が、泣き声が、怒鳴り声が聞こえ。誰か一人でもいない時は寂しくて、いる時は喧騒の中に安らぎがあり、いつの間にか年をとって・・・・・・とても楽しい幸せそうな家庭ですね。

そして子供達にとってなにより安心出来ることは、いつもお父さんとお母さんの仲がよいということでしょう。 永年一緒に過ごす慣れによって、お互いの我を抑えることをしなくなり、些細なことで諍いとなり、果ては離婚にまで発展してしまう。 このようにお互いの我がぶつかり合った勝手な始末だけは子供に見せたくないものですね。

人間の持つ自己中心の考え方、つまり我を捨て去った心を「慈悲心」と言い、相手をおもいやる心のことです。めぐりあいの時、縁というものがあって現在の家庭があるのだということと、認め合い、慈悲の心を使い合って、お互いの持つ素晴らしさ、そして、めぐりあいの不思議さを再確認してみませんか。


釧路市 佛心寺
山辺 文彰さん


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2010年10月23日放送

庭の手入れをお願いした庭師さんが、庭木の手入れを聞いた私に、
「根の広さほど葉は広がるという言葉があります。」
「樹木は枝が伸びている通り根が張っているものですよ。」
「だから肥料は幹の近くにやってもあまり効果が無いもんです。」
「春の雪どけのころに、よく育ってくれよと願いを込めて、寒さを迎える秋には、ありがとうと感謝を込めて、根の先に少しずつ肥やしをやると良い樹木になりますよ」
「何といっても樹木は根が命でございますから」
「見えない土の中を大切にしてやってください」
と丁寧に教えてくれました。
枝が広がっているだけちゃんと根も土の中で広がっている。木は根が命だといういかにも年輪を重ねた職人さんに、根の本(もと)と書く根本の大切さを教えられました。

私たちは、ややもすれば人生の目標を急ぐあまりに兎角、何事も根本・基本をおろそかにして器用に目先を繕うものです。 芸能界やスポーツの世界で、スターと呼ばれた人たちや、いろいろな世界で突然時代の波に乗って光を与えられた人たちが、根本の大切さを忘れたばかりに、いつの間にか次々とその世界から消えていく姿や、それに似た例を自分たちの周囲で見聞きするとき、つい日常生活で根本の大切さを忘れがちな自分の心に気づいてうろたえるのはわたくし一人ではないと思うのです。

誰もが願うのは、豊かな人生、幸せな人生でありましょう。本当に貴方が幸せを願うなら、己の足元に目を配り、生かされて生きている、人生の根本を大切に致しましょう。そんなあなたの生き方がきっとあなたの人生を豊かに、そして幸せにしてくれることと思います。


厚岸町 吉祥寺
斉藤 章彦さん


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2010年10月16日放送

私達人間は人という文字の形が示しているように、多くの存在に支えられながら生きているのではないでしょうか。その一番身近なものが食事というものに表れていると思います。私達は日々、命を維持する、永らえるために食事を致しますが、その私共の食事の材料となるものも同じ命を持った生き物達であり、他の生き物の命を頂いて生きているのです。

中国のある書物の中に、「生を護る。すべからく是れ殺たるべし」という言葉がありますが、生きる上では仕方なく他の命を食べざるをえない、そういう存在が私達人間なのです。

食事を頂く前の、「いただきます」という言葉には、他の生命を頂く事によって、生かさせて頂いていることに対しての、感謝の気持ちが表れているのではないでしょうか。又、ごちそうさまの「馳走」という言葉の意味は馬や馬車を使って走り、そして、人をもてなすという意味があるようです。現代の世の中ではコンビニ等に行けば、二十四時間、食事を取ることができますが、料理となって、私達の口に入るまでには様々な方のご苦労があり、手が加えられている、忙しさに追われていると、そういった大事なことも見失いがちになります。お食事を作って頂いた方に対しての感謝の気持ちを表す言葉が「ごちそうさま」だと思います。

飽食の時代と呼ばれる、現代社会ですが、折角の料理を食べ残し、残飯として大量に捨てるという事だけは避けたいものだと思います。


夕張市 錦楓寺
磯西 道由さん


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2010年10月9日放送

「私たちは頭で考えるのではなく、手で考えるのである。」九十八才で亡くなった小説家宇野千代さんの言葉です。さらに宇野さんは、「人間の考えることは、その人の行動によって引き出されることが多い。」とおっしゃっています。「考えること」と「行動」の関係を宇野さんはこのように表現されています。

永平寺の道元禅師は、「心と身体の関係」を「心」と「身体」は、分けて考えることのできない一つのものと言われ、行動することが心を育むとお考えになりました。例えば、「あの人は優しい心の持ち主だ」と言われる人がいるとします。その人が優しいと言われるのはその人が優しい“ふるまい”をするからです。「心とは行動」でありこのことを「心身一如(しんじんいちにょ)」と申します。

禅寺の修行は厳しいと言われますが、「立ち居振る舞い」や「作法」が細かく教え込まれるのはこの考え方に基づいています。三度の食事は手を合わせお唱えをして感謝を表していただきます。廊下ですれ違う時は先輩も後輩もなく手を合わせ深々と頭を下げて挨拶をします。このように立ち居振る舞いや作法に他の人のことに思いをいたす仏の慈しみの心が込められています。

宇野さんは「行動することが生きることである」という本の中で、「人生は行動である」と言われています。電車の中で席を譲ること、譲られたら素直に「有り難う」と座ること、笑顔で挨拶をすること、私たちの他の人への思いやりの振る舞いの中にこそ、心が生き生きと現れることを忘れたくないものです。


苫前町 晃徳寺
坂川 資樹さん


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2010年10月2日放送

暑かった今年の夏もとっくに終わりを告げ、すっかり涼しくなりました。 いよいよ食欲の秋ですね。美味しいものが沢山食卓に並ぶ季節です。えりも町でも、秋鮭漁の最盛期を迎えていますが、採りたての魚や、旬の野菜、甘く熟した果物は、私たちの味覚を刺激し、食欲を増進させてくれます。しかし、私たちは、お腹一杯食べる事の出来る幸福を自覚し、感謝して食事を戴いているでしょうか?

世界中には、未だに飢えと戦う人々が溢れています。WFP=国連世界食料計画によると、世界では飢餓やそれに関する病気のため、毎日二万五千人が命を落としています。その内五歳以下の子供は、一万四千人を占めます。時間に直すと、実に六秒に一人、子供が生命を失う計算になるのですね。子供の飢餓は、身体や知能の発達の遅れに繋がり、さらにその国の経済に大きな損失をもたらします。現在世界の飢餓人口は十億人近くまで上り、さらに増え続けると、予想されています。

私たちは、飢えで苦しむ人々がいるこの世界の現実から目を逸らさず、自分たちにできる援助を行っていきたいものです。そして、一食一食の重みをもっと噛み締めて、食事を残さず、大切に戴くべきではないでしょうか!

永平寺をお開きになった道元禅師さまは「生きることと食べることは同じである。だから、生きることが自然の摂理に即していれば、食生活もまたそのようになる。生き方が真実そのままであれば、食もまた、真実そのままである」【赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)】とお示しになっています。無駄のない食生活を工夫して、生命の糧を味わいながら戴き、お互いの生命を尊ぶ心を養ってまいりましょう。


えりも町 法光寺
佐野 俊也さん


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2010年9月25日放送

刑務所で俳句の指導をしている師匠が、「あいつはもう大丈夫だ」と興奮気味に帰ってきました。「方丈さんどうしました」と尋ねますと、「若い収容者が詠んだ句に、すばらしいものがあった」

その句というのは「この手もて、犯せし罪の愚かさや」という句でした。師匠は大いに感激をして、どんな気持ちでこの句を詠んだのか、聞いてみたところ「寝苦しい舎房の中で、子供の頃の母親の記憶がよみがえってきました。楽しかったことやつらい思いをさせた事。
そして、自分が何をしてきたのかを考えているうちに、とめどなく涙が溢れてきました。
それからというものは、農作業をしていても、周りの木々の緑も、小鳥のさえずりも、風の音さえも、みんな私に何かを語りかけてくれるような気がして、晴れ晴れとした気持ちになれるようになりました。そして今日、先生の教誨を受けて、この句が浮かびました。」とのことです。

大本山永平寺をお開きになりました、ご開山道元禅師は「峰の色 渓(たに)の響きも みなながら、わが釈迦牟尼の声と姿と」このようにお示しでございます。 私たちの周りにある天地自然、すべてのものが語りかけてくれるのです。 それは、お釈迦さまの心であり、徳であり、教えです。 つまり、私たちの心が素直であればこの事をしっかり受け止める事が出来るのです。 自然を大切に、互いに心を磨きあいながら、生きていきたいものです。


北斗市 七宝寺
油井 清量さん


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2010年9月18日放送

今日も元気にあいさつを交わされたことと思います。

さて、私たちの日常生活の中には沢山仏教から派生した言葉があります。 その一つが「あいさつ」です。あいさつは仏教語でも特に禅語といわれるものです。 広辞苑で調べてみると、門下の僧が互いに問答をかけ合い、その悟道・知見の深さ、浅さを試してみるとあります。お互いに問題を出し合い、どれくらい理解し、実践しているかを試しあうことを「あいさつ」といいます。

挨拶はお互いのコミュニケーションへの潤滑油です。例えば、昨日の朝、私に気持ちよく挨拶してくれた向かいのアパートの奥様、今日の朝はしてくれませんでした。昨夜、何かあったのかな?と私は心配になります。

あいさつの「あ」は挨拶をするときは相手の目線でする、相手の「あ」です。例えば、子供には子供の目の高さで、病気のお見舞いに行った時には、寝ている人のベッドの目の高さで声をかけるのです。
次のあいさつの「い」はいつもすることの「い」です。今日はするけど明日はしないというのではないのです。今日の朝の向かいの奥様のようにです。
さて、次のあいさつの「さ」は人よりも先に声をかける先の「さ」です。自分の知っている人から通りすがりに先にあいさつをされると、大変とまどうことがあります。ですから人よりも先にするのです。
次のあいさつの「つ」はあいさつの後には付けたしをする、付けたしの「つ」です。おはようございます。次に今日は暑いですね。と付け加えることによって、次の会話へと進みます。

言葉はコトダマ・心の霊(たましい)として人の心の中のあり様や思いを伝えます。日常生活の中で何気なく使っている「ことば」や朝夕の挨拶には他を思いやる心、やさしさや心を働かせる思いやりが形として見えてくるものです。渇かない心、渇かない人間関係のためにも心して挨拶をしたいものです。


江差町 正覚院
松村 俊昭さん


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2010年9月11日放送

お寺に部活動の子供達が坐禅を体験しに来ます。座り方の指導をし、坐禅をする。坐禅が終わり、私から「今、どの位坐ったか分かりますか?」と声を掛ける。

例えば、10分間の坐禅に対し、多くの子供達は時間を長く感じる、15分、20分位と。少数の子供達が、5分、8分と短く感じる。

ここでお考えを頂きたいこと、それは“時は不変”です。我々自身の心の持ち方一つで、早くもなり遅くもなる。

例えば、何かに夢中になっている時、好きなことをしている時、楽しんでいる時、時間は「あっ」と言うまに過ぎさってしまいます。又、逆に苦痛を感じる時、嫌だと思う時、まだ終わらないのだろうかと時間を長く感じてしまう。しかしながら“時は不変”です。

我々自身の心の持ち方一つで早くもなり、遅くもなる。言いかえれば、良くもなり、悪くもなる。その様な心を我々は持っております。 この心を常に真ん中に、正常に保つ努力を行わなければなりません。

宮崎禅師様は、常に「人より5分早く起き、坐禅をくみなさい」とお話しになられておりました。ご家庭に御仏壇のある方であれば、1分でもいいから仏壇の前に座って頂くこと。それを毎日続けていって頂くことが、我々自身の心の安寧につながるのではないでしょうか。

あなたは、どの位座ることが出来ますか?


苫小牧市 中央院
荒澤 道範さん


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2010年9月4日放送

本日は私の日常生活をお話させていただきます。 午前四時三十分起床、洗面等を済ませ、四時五十分お寺に到着。
五時から六時迄朝の坐禅勤行(ざぜんごんぎょう)、終わって朝参(ちょうさん)と申します朝の会議が行われます。 六時三十分頃終了、帰宅し朝食を頂き、その日のお檀家さんへお参りの準備をします。
七時三十分頃、園長をつとめさせていただいている、龍徳保育園に向かい、八時十分頃お参りに出発します。

毎日、十から二十軒のお宅にお伺いいたします。全て終了するのは十二時から十四時の間です。 その後、お寺に戻り、報告を済ませ、住職に挨拶後帰宅し昼食を頂きます。 その後、保育園の仕事をしたり子供達と遊んだりし、十九時頃終業となります。

一ヶ月に三日間、お寺の受付当番がまわってきます。その日は午前三時四十五分起床、お寺に到着し、開門解錠し、御本尊様や歴代住職、さまざまな仏像にお茶をお供えし、五時に朝の鐘を鳴らします。その日は終日お寺にいて、電話や来客者の応対、納骨堂での御供養等を致します。

因みに、第二、第四土曜日午前六時から坐禅会、第二、第四水曜日十四時、写経会、第三水曜日十四時御詠歌、二十八日、十四時報恩会と言う読経会が御座います。参加希望の方は小樽市龍徳寺迄お問い合せ下さい。


小樽市 龍徳寺
有田 弘宗さん


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2010年8月28日放送

「常に笑みを含み、顔をのべ、平視して、顰蹙(ひんしゅく)を遠離す」

これは、観音さまの表情を示した一文です。 「常に笑みを含み、顔をのべ」とは、いつも微笑みを忘れず、顔をしかめずということです。
「平視して、顰蹙を遠離す」とは、すべてのものを平等に見て、眉間に皺をよせるようなことはしないということを示した一文です。
観音さまは、心の修行を完成して、それでお終いではなく、その後に、美しい微笑みの修行があり、はればれとした顔の修行をされているのです。 なるほど、観音さまのお顔に癒され、心温かくなるわけです。 内面が整うと姿・形も整ってくることでしょう。しかしまた、内面が整わなくても、姿・形を努力して整えることで、内面が自ずから整うこともあります。 微笑むことで、心も温かくなるということです。 眉間のシワに幸せなし、微笑む顔のシワにこそ幸来たる。 どうぞ一緒に微笑み合わせて往きましょう。

最後に皆様、1つご注意を。 この原稿を見た妻が私にひとことこう言ったのです。
「他所様だけに微笑みまかず、我が家の中にも忘れずに」
妻の言葉で反省しました。 外ではニコニコするのは良いけれど、それで疲れて家では無表情。 そんなことでは意味がありません。 先ずは大切な人の傍で、眉間のシワをピンと伸ばし微笑み保つことが、幸せへの第一歩かもしれません。 身と心を整えて、顔も心も柔らかくありたいものです。


札幌市 含笑寺
神谷 俊英さん


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2010年8月21日放送

亡きご先祖様に守られながら、私達が今、生きている幸せと感謝の気持ちをあらわす、お盆の行事も終わりました。

よく、人は一人では生きていけないと言いますが、文明の発展と共に、仲間意識とか、近所付き合いとか、助け合いという思いやりの心がうすくなり、俺が、私が、俺さえよければ、私さえよければ、という人がとても多くなっているような気が致します。

テレビをみていると若い女性のレポーターがアマゾンの集落を訪ねるという番組が放映されていました。彼女は村の長にこうインタビューをした。 「あなたは幸せですか?」すると長は「あなたは日本人なのにどうしてヨーロッパ的な質問をするのかね。」と言った。 彼女にはその意味が全くわからず少々困っていると「いいかね。ここでは幸せかと聞くときには必ず、みんなは幸せか?みんなは健康か?みんなは困っていないか?って聞くんだよ。なぜかって?それは私一人が幸せでは、一緒に生きていることにならないからだ。私一人だけ幸せで健康であったら、それは私達にとって一番不幸なことなんだよ。みんな一つの心で助け合って生きているんだよ。」

この言葉を聞いて彼女はポロリと涙を流した。彼女は心の中で何かを感じとったに違いありません。 “人は一人では生きていけない”


安平町 見龍寺
守屋 敬道さん


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2010年8月14日放送

今年もお盆になりました。

あるアメリカ人の留学生が「亡くなった人の魂をまつるお祭りや行事は世界中にありますが、日本のお盆は姿は見えなくても、声が聞こえなくても帰ってこられるご先祖様や亡くなった人を心からお迎えして、ごちそうでおもてなしをし来年もまた帰ってきて下さいとお送りする。とても温かいやさしい日本人の心を感じます」と言っておりました。 このお盆の行事は全国的な風物詩であり、日本独自の先祖供養といってもよいでしょう。

心臓が止まる事を「おとまり」と表現する地方があるようです。私達の体は、心臓から押し出された血液が肺に行き酸素を取り入れ、その酸素と栄養を体の隅々まで円滑に循環されております。その心臓の鼓動がとまり謙譲の気持ちを添えて「おとまり」。とても優雅で味わい深い言葉だと感銘を得ました。人間の寿命は何を持って決まるのでしょうか。普通15億から20億の心拍数で命が終わるとも言われております。

限られたこの命が昼夜を問わず、「おとまり」となるまで一時たりとも休む事のない心臓の搏動、心拍によって今生かされております。 この命は先祖様から脈々と受け継がれたものであり、今「自分が、私達が」ここに生かされている事に気づき、そしてその憶いを新たにする行事がお盆です。ご先祖様との命の交流をはかり、生命の尊さを自覚し慈悲の心を育てたいものであります。


深川市 大玄寺
横山 信雄さん


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2010年8月7日放送

数年前お檀家のKさんの奥様がガンでお亡くなりになった時の事です。 Kさんは行商から一代で大きな洋品店を築かれた方ですが、四七日のお参りに伺った折、お経が終わりお茶をご馳走になっていると「お寺さん、合掌っていうのはするもんじゃないんだね、させられるもんだね」そう云って「自分は今まで商売に忙しくて合掌の事なんか考えたことがなかった。葬式や法事に行っても格好だけは手を合わせても心から合掌した事なんかなかった。だけど家内が死んでから、ここへ来るともう自然に手が合わさってしまう。あぁ、合掌っていうのはするもんじゃないんだ、させられるものなんだなーって初めて気がついたよ」としみじみおっしゃいました。

私も修行時代に師匠から「合掌は仏様をむこうに置いて拝んでもだめだ。自分の処に引っ張ってきて、仏様と一体にならないと本当の合掌ではないぞ」とよく云われました。

仏様と一体となる。そうです、Kさんも奥様と一体となり心の中の奥様に対して合掌をしていたのです。つまり自分自身に対して合掌をしていた。合掌とは自分自身を拝む姿だったのです。

今年も御盆の季節を迎えました。御盆には多くの人が故人を偲んでお墓やお寺参りを致します。仏様や亡き人と一体となれる様な、そして自分自身を拝む様な合掌を心がけたいものであります。


留辺蘂町 大泉寺
黒澤 均英さん


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2010年7月31日放送

今日で七月も終わりですが、八月になりますとお盆の季節がやってきます。お盆にはご先祖様が一年に一度家に帰ってきます。そのご先祖様を迎え供養する期間がお盆です。

ご先祖様を迎えるためにお仏壇やお墓を綺麗に掃除をして、季節の花やお供物などを供えて感謝の気持ちを忘れず迎えてあげましょう。 お仏壇やお墓の前で手を合わせ、今いる自分を再確認する、手を合わせるということは亡くなられた方やご先祖様のご縁によって導かれているのです。 そのご縁に感謝をしましょう。感謝することによって心が清らかに澄んでいきます。感謝するということは心が豊かになり温かくなる方法なのです。

近年ではファーストフードが流行っていますが、食事をする時みなさんは何を思って食べているでしょう。

ご存じの通り食べ物が食卓に並ぶまで何人もの人によって作られ、また野菜や動物の命をいただいて食事をしています。愛情を込めて料理をしてくれた人達や自然の恵み、命に対して感謝をし、食べる前には「いただきます」、食べた後には「ごちそうさま」を手を合わせて言いましょう。自分を反省し、好き嫌いを言わず、感謝の気持ちを忘れず食事をして下さい。

私たちは多くの命によって支えられ生かされています。その感謝するという気持ちを忘れずに生活していけば心に何か変化があるのではないでしょうか。


札幌市 禅福寺
菊地 大元さん


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2010年7月24日放送

私が修行中、当時102才の永平寺宮崎奕保禅師様に教えていただいた話です。

「お前達は、『南無釋迦牟尼仏』と唱えているが、意味を理解しているか? 釋迦牟尼佛というのはお釈迦様のことだ。では『南無』とはなんだ?」と問われました。

誰に質問されているのかもわからず黙っていると、少し困った顔をされながら、「日本語の『好き』と言う言葉の意味は?」と先頭の者を、指差しました。さすがにその者は答えなければならず「好き、好ましいという意味だと思います。」と答えました。

禅師様はニッコリと笑われ、「そうだな、その通りだ。では英語の『アイラブユー』の言葉の意味は?」と横の者を指差しました。その者は、困りながらも「同じ意味だと思います。」と答えると、「違うぞ。『アイラブユー』の言葉の中には、相手を好き、好ましいというだけではなく、相手を敬い、尊敬する、そして委ねる、まかせるという意味も入る。『南無』というのは、アイラブユーということ。『南無釋迦牟尼仏』とは『アイラブお釈迦様』と唱えている。これはお釈迦様を好きだと言っているのではない。僧侶が『南無釋迦牟尼仏』と唱える時、これは日々の修行、生活、行いをお釈迦様に委ねますという意味で唱えている、お檀家の皆さんが唱える、『南無釋迦牟尼仏』。誰かを思って唱える時。お釈迦様どうぞその方をお願いしますね。導いてあげて下さいね。という意味になる。」

これが禅師様に最初に教えていただいたこと。皆様もお盆の近いこの時期にどうぞ『南無釋迦牟尼仏』とお唱え下さい。其のお心があの方に届きますように。


札幌市 薬王寺
田中 基裕さん


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2010年7月17日放送

渾身口に以て虚空に掛る
東西南北の風を問わず
ただひたすらに他がために般若を談ず
滴丁東了滴丁東(チンテントンリンチンテントン)

道元禅師の師匠、中国天童寺の如浄禅師が示された風鈴という歌です。

例年になく蒸し暑い日々が続いていますが、いかがおすごしでしょうか?

今年も、風鈴が似合う季節となりました。暑い日に一服の清涼感をもたらしてくれる風鈴。軒先にブラリと下がり、風が吹けばその全身全霊で、チリリンチリリンと涼しげな音を聞かせてくれます。

私たちは、生きてゆく上で、自分の利益を考え、あっちについたり、こっちの顔色を窺ったりという偏った生き方をしてしまいがちです。風鈴が音を出すことができるのは、偏らず、ただ、まっすぐにぶら下がっているからです。さらに、吹いてくる風をより好みせず、それこそ風任せで、ただひたすらに音を奏でます。勿論、いい音色の時もあれば、少々やかましくなることもあります。しかし、その音を聞くことで、私たちは風を耳で観ることができるのです。

人間の世界には様々な風が吹きます。順風・逆風・そよ風もあれば、心が折れてしまうほどの突風が吹くこともあります。

しかし、どんな風に吹かれようとも、ただひたすらに、自分のなすべきことを淡々と確実に行ってゆきたいものであります。


札幌市 眞龍寺
飯田 整治さん


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2010年7月10日放送

七月、八月はお盆の季節です。

明治時代に、日本に帰化した、ラフカディオハーン、小泉八雲は、

「亡き人の、御霊(みたま)の前に、夜毎(よごと)にともされる、小さな灯明(ともしび)。食べ物やお茶などをあげる、ささやかな供えもの。仏迎えのお盆の迎え火。亡き御霊を、再び安らぎの、黄泉(よみ)の国へ送り返すために、用意される精霊船(しょうりょうぶね)よ。こういう古い家庭宗教に、無信仰な人間にも、何という詩的な情緒が感じられることだろう。」

と書き残しています。

あたかも亡き人々がそこに存在し、生きている私達と交流している姿を、感動をもって讃(たた)えている文章です。

「まざまざと、いますがごとし、魂(たま)まつり」

亡き人々がわずか数日の間、この世に戻り、いろいろなおもてなしをうけて、再びあの世に帰ってゆくという、お盆の行事は、送り火や迎え火、お盆の「お墓まいり」や「お寺の法要」、「灯篭流し」や「精霊流し」、「大文字」や「盆踊り」など、いろいろな形で全国各地で続けられています。

このお盆の季節に、私達の身体の中に「はるかなる過去」から脈々とうけつがれている「大切な命」。「その命の尊さ」と「大切さ」をあらためて、深く感じてほしいのです。

人の命が軽く扱われている、昨今。「お盆の行事」の奥にある深い意味をさらによく味わってみて下さい。


松前町 法幢寺
木村 清韶さん


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2010年7月3日放送

早いもので七月に入り、地域によってはお盆を迎える所もございます。

さて突然ですが、皆さんはどの様な時に宗教を考えることがありますか? 多くの方は葬儀や法事等のときではないでしょうか。もちろんご先祖を敬い、供養をすると言う事は、我々仏教を信ずる者にとっては大事な報恩行であります。

しかし仏教の教えというのは、今生きている我々にも素晴らしい事を教えてくれています。 私共の曹洞宗には修証義と言うお経があります。これは曹洞宗をお開きになった道元禅師が書かれた、正法眼蔵と言う著書を要約し、一般の皆さんに分かりやすく説いたものであります。 その中に四摂法と言う、我々が普段から心がけて行わなければ成らないことが書かれています。その四つの事とは布施・愛語・利行・同事であります。

最初の「布施」は施し与えると言う事です。物でも心でも人に与える事です。そして見返りを求める心を持たないことです。 次に「愛語」は慈しみの声をかける事です。慈しみの心とは、赤ん坊を見る時のその気持ちで皆に優しい声を掛ける事です。 三つ目の「利行」は自分の利益ばかりを求めず、他人の利益になる様な事をしようと言う事です。 最後の「同事」は相手と同じ目線で、お互い協力しながら事をなしましょうと言うことです。

今日からこの四つの菩薩行を、まずはご両親や子供さんや身近な人に対して行い、生活をしては如何でしょうか。


函館市 興禅寺
太田 広康さん


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2010年6月26日放送

今日、6月26日は、私の誕生日です。 そして、誕生日になると必ず淀川長治さんの話を思い出します。淀川長治さんとは、長年、日曜洋画劇場にて解説を勤められ、特に番組の最後「それでは、次週をご期待下さい。さよなら、さよなら、さよなら」の名台詞を残された方であります。

その淀川さんがこんな事を言っておりました。
「誕生日は、母が陣痛の痛みに耐えて私を産んでくれた日です。私を産んでくれた母に感謝する日なので、母と一緒に過ごす事にしているんです」

私は、誕生日と言うと両親を始め、周囲の方からお祝いをされるのだと思っておりました。 しかし、誕生日は、母が陣痛を耐え抜いてくれた日であり、十月十日お腹の中で守り抜いてくれた日であります。 その事を考えたならば、誕生日には、一言でも良い。「ありがとう」と感謝の言葉を口にしたい。態度で示したい。 母と父がいなければ、私は、今この世にいないのだから。 例え一時、反発をすることがあっても、親孝行が人間文化の始まりなのだから。 人間として生きる心の源とこの体を頂いたのだから、改めて「ありがとう」と伝えたい。


黒松内町 洞参寺
小林 正胤さん


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2010年6月19日放送

皆さんはお仏壇に向かってお参りされるとき、両手はどうしていますか?大体の方は、両手を合わせて合掌の形になっていると思います。
では、なぜ、お参りをするときに手を合わせるのでしょうか?

人間の歴史は手の歴史だと言っても過言ではありません。犬や猫のような動物が、人間の手のようになっていたら、その動物の歴史は変わっていたでしょう。 人間は後ろの二本の足で立ち上がって、前の二本の足を、歩くという仕事から解放しました。そして手にしてしまったのです。 人間はその二つの手で、木を切り、山を開き、田畑を耕し、文化を創りあげてきたのです。また一方で、二つの手で、自然を破壊し、相手を傷つけ、戦争をしてきました。

その二つの手を合わせるということは、その両手でやってきたことの意味を深く考えるということです。手のひらを合わせてしまえば、ケンカはできません。だから、手を合わせるということは、祈りの姿なのです。そして、その祈りは平和の祈りです。

仏教をお開きになったお釈迦様は、ヒマラヤのふもとにお生まれになりました。そこの人たちは、朝晩、道で人に会うと合掌して、相手を敬い、相手の幸せをお互いに祈る習慣があって、今でもインドやネパールでは、みんな『ナマステ』と言いながら合掌をして、あいさつを交わします。とても心のこもったあいさつですね。

そしてその習慣が、日本に伝わって、ほとけさまやご先祖さまに合掌してごあいさつするようになりました。 皆さんも手を合わせるときは、その意味をよく考えて合掌なさってください。 その姿こそがほとけさまの姿なのですよ。


札幌市 高正寺
早川 孝雄さん


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2010年6月12日放送

この時期になりますと、必ず本州にいる親友から電話がかかってまいります。内容は毎年一緒で、「北海道は梅雨がなくていいな、北海道に住みたいよ」との声。北海道民で良かったと思う瞬間です。

みなさんキンモクセイという木をご存知ですか?秋になるととても良い香りのする花を咲かせます。私が本山で落ち葉掃きをしている時、何ともいえぬいい香りがしてきました。今まで嗅いだことのない匂いでしたので、仲間に聞いてみたところ、それがキンモクセイの香りでした。当時の感動が忘れられず、この木の北限は青森といわれていますが、庭に苗木を植えました。梅雨の無い札幌に根づくのかが心配です。この木にとって、梅雨はとても大事なのです。梅雨によって葉がキレイになり、それが秋に良い香りのする花へとつながってくるそうです。我々人間にとって梅雨はジメジメとした長雨でやっかいなものでしかありませんが、キンモクセイにとってはこの梅雨こそが最も重要なのです。

お釈迦様は法句経の中で「自分が嫌いな人がいたら、離れて遠くから見てみなさい。いい所が沢山見えるはずですよ」と言っておられます。物事を色々な角度から見てみれば違った見え方があるというお釈迦様の教えを自然の植物からあらためて教えられた気がしました。本州の人が最も嫌がる梅雨も、今の私にとっては少しうらやましく思い、毎日キンモクセイの葉に水をかけています。


札幌市 禅福寺
前田 昌鑑さん


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2010年6月5日放送

緑豊かな、良い季節になりました。 子供達は、学年やクラスが変わって二ヶ月経ち、新しい生活に慣れてきたことでしょう。ランドセルを背負った一年生も板についてきたように見えます。

私は、子供の頃勉強が嫌いで、よく怒られました。「なんで勉強をしなければいけないのか?」と考えました。 偉くなるため?いい学校に入るため?お金持ちになるため?答えはいろいろあると思いますが、今になってもっと勉強していればと反省しています。そして親の愛情がわかってきました。

私たちが、この世に生まれて最初の勉強は、お母さんの話を聞くことから始まりますね。お乳を吸いながら、楽しそうに笑ったり、泣いたり…。表情を変えて話しかけてくれる優しいお母さんの顔をじっと見つめ、感情を身につけ、言葉を覚え、人の話がわかるようになってきます。

悲しい話や、愉快な話、おもしろい話などいろいろありますが、私たちはそれを聞くとき、話をしてくれる人と心を通わせ、喜んだり悲しんだりします。心は、そうすることによって段々と深く豊かになっていくのです。相手の話を思いやりを持って聞ける人が、優しい気持ちを持った人なのです。

私たちは、勉強することによって、このやさしい気持ちを身につけるだけではなく、「努力」というものを、学ぶことができます。「努力」とは、なまけることの反対です。

毎日勉強することは、大変で面倒くさい。けれども、勉強していて一番苦しいときに、少しだけ我慢をして努力を続けると、あとは思ったよりらくに進んでいくことができます。

「継続は力なり」この、ほんの少しの我慢を大切にしてほしいと思います。
あなたの幸せを願っている人がいるのだから。


札幌市 薬王寺
田中 清元さん


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2010年5月29日放送

このところ巷では、「エコ エコ」とよく耳にいたします。エコバッグ、エコ減税、エコポイント、これだけ毎日毎日耳にしていると、一体エコとは何ぞや?という疑問がわいてきたりします。「環境を表すエコロジーと経済を表すエコノミー」を合わせた接頭辞なのだそうですが、まず頭に浮かぶのは、あふれるほどの物を造りながら、一方で節約ブームと謳っている矛盾点に疑問が湧いてきます。自分の周りをよ〜く見渡してみて下さい。案外必要の無いものに囲まれて生活している事に気が付いたりもします。 確かに地球の環境を守り、無駄を無くすのは素晴らしい考え方です。個人で出来ることは限られていますが一人一人が意識を持つことで世の中はゆっくりと変化を遂げていきます。

仏教の教えに「少欲」と「知足」という言葉があります。お釈迦様は「欲望というものは、満たせば必ず次の欲望を生む」これが人間の迷いの根幹であるとご指摘されました。しかし一方では欲望を満たすのがいけないとは申されてはいません。 欲望というものは、絶えず危険性を伴うものであることを知り、その制御を学びなさいということを教えられています。何かに付けて闇雲にエコを唱える前にまず日常からこの欲をおさえて足りていることに気付くという「少欲」と「知足」の教えを意識して生活することこそ本当のエコに繋がるのではないでしょうか。今一度考えてみてはいかがでしょう。


札幌市 瑞現寺
斉藤 徳光さん


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2010年5月22日放送

若い時には早く大人になりたいと思い、時の早さを感じる事など無く、今この年になって振りかえると、あっという間であるという事は誰しもが思い、一年一年さらにその早さは増してくる。まさに光陰矢の如し、との意味を身をもって感じています。普段お檀家さんと接していますと、年配者が多い訳で、年の話になりますと、一年早いですねぇ、こないだ正月来たと思っていたら、もう春になって、もう半年がたち、もう盆の季節がめぐり、盆も終わればすぐに寒くなり、日も短くなり、やがて冬がくる。本当、年とったら早いんだよねぇ。いや私もそうですよと答えると、お寺さんなんかまだ若いよ、年をとると一日何もしないで過ごせば、一日が長いものと思いきや、ぼけっとしててもすぐに一日が終わってしまう。いや本当に年はとりたくないねとおっしゃっていました。

それは、素直な気持ちであると思います。車でたとえるならブレーキはきかず、スピードはゆるむ事なく、むしろどんどん加速していき、とどまる事なく、いつ故障するかも分からず、いつ大破するかも分からない。そう、我々の人間の命は、そんなものである。そう考えたら、ぼやぼやしてられない。今日この命が尊く、かけがえのないものであり、過去は捨てられたもの。未来ばかり追い求めず、今この時、この瞬間が、一番大事である。日々、一日一日を、充実したものにするには、明日というのは無いものと思い、あす死んでも悔いはないという生き方こそが、もっとも大事であると思います。


札幌市 祥龍寺
長谷 泰広さん


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2010年5月15日放送

皆さま、思いやりのある心づかいで親切にしていただくと、うれしくて、感謝の気持ちで心温まりますよね。 思いやり、心づかいとは、感謝をされたい、お礼を言われたいから、とすることではございませんよね。 ドアが閉まらないように支えてあげたり、道をゆずってあげたり、食事の時にお正油を取ってあげたりおかわりをよそってあげたり、そこに、見返りを求めてしまえば、せっかくの思いやりや、心づかいがだいなしになってしまいます。また、心のこもった贈り物、心のこもったおもてなし、心のこもった言葉、まごころのある行いは、やさしく、うれしく、心に届きますよね。

うそいつわりのない誠の心、まごころは、人の心に響き伝わります。

人と人とは、心と心。
ひとりでいると心細い、だれかといると心強い。清い心をもてば清く、心、汚れれば汚れてしまう。強くなるのも、弱くなるのも、良い事も、悪い事も、良い行いも、悪い行いも、その人の心によるものです。

人と人とは、心と心。
人は心で生きるのです。まごころを大切に致して、いきたいですね。


古平町 禅源寺
秋田 修孝さん


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2010年5月8日放送

北海道もようやく桜の季節ですね。
私のお寺の境内には、八重桜の木が十数本植えられています。毎年五月の中頃から、終わりにかけて、満開を迎えます。もう何十年も満開の桜が咲き誇り、やがて風に吹かれて大地に舞い落ち、境内をきれいなピンク色に染め上げてきました。私は、物心ついたときから眺めてきたこの風景が大好きです。人の心には、いつも桜が咲いています。

毎年同じ様に咲く桜ですが、咲く時期も、咲き方も、散り方も、違った表情をみせてくれます。まさに一期一会、その瞬間に美しさを感じます。咲いていく花、散りゆく花、同じ風景はおそらく二度と見ることは出来ないでしょう。 今咲いている桜は、いつまでも永遠に咲き続けることはできません。たとえ同じ風景だとしても、その時の心の在り方によって見え方は違ってきます。人が、心奪われる事柄は、常に形を変え、変化していく様子です。 変化している様子を感じることで、発見し、感動するのです。

代わり映えのない日常などありません。あらゆることは常に形を変え、変化しています。昨日までなかった花が咲き、今日まで咲いていた花が明日には枯れてしまうかもしれません。移りゆくこの世界に目を向ければいろんな発見や感動があふれています。何気ない日常の中に、いままで気づかなかった、見つけることが出来なかった答えがあるかもしれません。それが心の桜です。

思うようにならないときこそ、自分に閉じこもることなく、目的に囚われず、まわりを見渡して下さい。心を満開の桜で一杯にするために気づかぬうちに発見や感動が、心に種を蒔いています。人知れず心に桜が咲いていることでしょう。あなたの心にも必ず桜は咲いています。


美国町 観音寺
的場 敬貴さん


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2010年5月1日放送

「この目で見た、この耳で聞いた、間違えない」と言い聞かせ、自分の都合勝手な独り善がりの世界を広げていませんか。 ある方は「世の中の活動は、見えない糸の繋がりだ」という。私達が、実際に見なかったり聞かなかったりするところに「生きる支えとなっている大切なものが、見え隠れしている」ことを忘れてはならないのです。私達が「お蔭さま」と手を合わせるのは、生きるものの深い認識から生まれた姿勢だと思います。

私達が生きるために、体内の臓器は日夜休むことなく働いています。私達の意識に関わらず、一年間に9,460,800回の呼吸が行われています。私達は、自然とも深い関係があり、四季折々の季節感によって生活のリズムを維持しています。その自然は、気取ることもなければ隠そうともせずに、いつも精一杯「もちつもたれつ」で生きるご縁の喜びを演出しています。

私達が、恵まれ感謝すべき状況にあるのに、どれだけ受け止めた態度かと思うと寂しく感じるのは、私だけでしょうか。道元さまは「この世は、諸縁の関わり深く、苦労を惜しまない努力があってこそ噛み合うものだ」と説かれています。私達の生きる世界は、不思議な浅からぬ因縁が展開していることを踏まえて「縁に随って行じ、縁に随って去る」の心情で、今此処でやるべきことをやるだけです。

この世は「無常」で、すべて変化し生まれ変わっていて、決して自分の思うようにならないのです。私達は、自分独りの力で生きているのではなく、多くの人や物に支えられて生きている自分に気づき、お蔭さまとご縁を受け止めさせていただく心の輪を広げたいものです。


三笠市 唱和寺
加瀬 道男さん


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2010年4月24日放送

ちょうどこの時期、福井県の曹洞宗大本山永平寺では、たくさんの檀信徒の皆様と、僧侶が集い、仏さまとのご縁を結ぶ、年に一度の大法要が営まれております。 その永平寺で私が修業時代に、開祖道元禅師様がご生誕800年を迎えられ、お寺の中にこのような言葉が提示されていました。

はきものをそろえると心もそろう
心がそろうとはきものもそろう
脱ぐときにそろえておくと
はくときに心が乱れない
誰かが乱していたら
黙ってそろえてあげよう
そうすれば 世界の人の心もそろうでしょう

私がとても好きな言葉です。

今度、自分の履物を確認してみてください。乱れてないでしょうか?もし乱れていたら直しておきましょう。まずは自分の心をそろえる。 そして「だまってそろえてあげよう」。

そろえてあげたんだから…と胸を張るのではなく、何も求めることなくただそろえてあげる。これがとても大事なことです。

こんな些細なことですが、それを積み重ねていけば世界の人々の心がそろう。なにげないひとつの行動で自分の心がそろい、自分以外のひとの心もそろい、そしてそのことによって世界の人の心もそろう。

自分のなにげない行動が世界を変える力となる。

そのなにげない行いが仏道なのです。仏様の道なのです。

今日からでも遅くはありません。ご一緒に実践してまいりましょう。


岩見沢市 孝禅寺
安彦 智峰さん


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2010年4月17日放送

今月八日は仏教の開祖、お釈迦さまの誕生日でした。

お釈迦さまのおかあさんは、お釈迦さまをお産みになられた後、産後の肥立が悪く、七日後に亡くなってしまいました。今も昔も、女性にとって出産というのは大変なことであります。

現代の私たちは、自分や家族又は友人の誕生日を賑やかにお祝いすることが多いものです。自分自身の誕生日を幸せで楽しい気持ちで迎えることは大切なことです。 しかし、最も心しなければならないのは、自分を生み育ててくれた親に感謝することです。

「諸人よ 思いしれかし おのが身の 誕生の日は 母受難の日」

父母が生きているうちに、親孝行の大切さに気付いた人は幸いです。しかし、人格的に完成し、生活にゆとりができるころには、既に親が他界していることが多いものです。 「親孝行、したいときには親はなし」とはよくいったものです。

自分の誕生日には、おのれの命の源に思いを馳せましょう。 そして、生み育ててくれた労苦に、「ありがとう」と心から感謝できる人間になりたいものであります。

ちなみに、きたる五月九日は母の日です。私自身、常日頃、つい忘れがちな母へ感謝を込めて、「ありがとう」という気持ちを届けたいものであります。


札幌市 真龍寺
飯田 整治さん


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2010年4月10日放送

この四月から新しい職場に就職の決まった方は、大きな期待と少しの不安を抱えて仕事に励んでいることでしょう。就職、それは自分が社会に尽くすプロとしての第一歩です。どんな場所でもどんな仕事でも、その場その場で当たり前のことを当たり前にやる。与えられた仕事に自分を活かし、前向きの姿勢で全力を打ち込んで働く事によって、自分の持ち味が発揮されるはずです。

しかし人生には、様々な困難、色々な悪条件が巡って来ます。如何なる困難、悪条件が起こっても「やり遂げよう」「やり通そう」と、一心に念じて努力すれば必ず困難、悪条件も克服できます。

禅の言葉に、「切に思うことは必ずとぐるなり」とあります。「切なる思い」というのは、「どうしてもこのことはやり遂げよう」と思う一心からくるものです。ものに一心になれば、そこにしぜんと方法・工夫も出きて、そしていつの間にかうまく行きます。うまく行かないのは、一心が足らないか、工夫、努力が足りないからです。

また四月は、新しい出会いの季節、縁あって人は様々な出会いをします。

考えてみると私たちは、絶対に独りでは暮らせません。必ず誰かと関わり合いが無ければ生きて行かれません。「みんなに生かされて、またみんなを生かしている」のだと気付いた時、「ありがたいなあ おかげさまで」という、感謝の心がわいてきます。そこに私たちの探し求めている今日(こんにち)の幸せがあるのです。ふれあいが生活を支え、命さえも支えているのです。これなくしては、一日も一時も暮らせません。

『その日その日を悔いの無い一日を』 この言葉を、限られた人生を送る私たちの合い言葉にしたいものです。


札幌市 禅林寺
日比 健士さん


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2010年4月3日放送

長かった冬もおわり、雪どけのすきまからふきのとうが顔を出す季節になりました。 私のお寺の庭にも、ふきのとうや、福寿草が芽を出し始めようとしています。 むかしの歌に

「踏まれても 根強く忍べ 福寿草 やがて花咲く 春はくるなり」

とあります。 福寿草やふきのとうは、冷たい雪の下で、永い間、ジーッと芽をだす時を待っているのです。そしてそれは、ただ漫然と時を待つのではなく、花芽をじっくりと育て熟成させて、春の到来に備えているのです。

おおよそ、春の花々にとって、冬の寒さは単に厳しいのではなく、その厳しい寒さがあってこそ、花を咲かせることができるのです。

永平寺の道元禅師様は「春になって爛漫と咲き誇る花々のすべてが、この寒い雪の中にあって花をつける梅の花に凝縮されている」と言われました。 北海道の場合、桜も梅もほぼ同時に咲きますが、これは冬の厳しい寒さが一転して春暖に変化することをあらわしています。 冬の寒さの厳しさゆえに、春の喜びがより大きいということなのです。

当番組をお聞き取りの皆さん方の中には、今、この時を雪の下の福寿草のような思いで苦しみ・悲しみに耐えていらっしゃるかたもあろうかと思われます。 そんな時こそ、春に咲く花に思いを致し、耐えるべきときはじっと時を待ち、今の苦しみがそのまま、大きな喜びになると信じて、精進いたしましょう。

もうじき野山が花々で覆われる季節がやってきます。春の喜びを、ともに味わおうではありませんか。


新篠津村 光明寺
藤原 重孝さん


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2010年3月27日放送

この季節を迎えると不思議に、かってローカル線の汽車の中での、幾度か転勤を繰り返し、定年退職を迎えたに見える御夫婦の姿と会話を思い出します。

「かぁさんやっぱりあのタンス投げたのか…」「投げたよ…あんたなんべん言えば分かるの…形見だ形見だ…なんぼ転勤するたびにあのタンスに悩まされたの…ようやく自分たちの家だもの…あずましく暮らそ…あんたの言うようにしていたら家の中、整理整頓できないしょ…」「うん、そうだな…分かってるけどいたわしかったナ」

急に後ろの御夫婦の会話が閉じたのです。 何となく後ろの席が気になってちらっと御二人を見て座りなおしました。ご主人は言わなければ良かった…心なしか項垂れている様子、奥さんは「つい言い過ぎた…」という様子でした。

私は車窓の流れ去って行く風景を眺めながらフト考えました。 お釈迦様さまは、人間は如何に生きるべきかと六年間のご修行の末に【身を整え・息を整え・こころ整え】【己を見つめる】坐禅によって、ついに悟りの人「仏」となられました。人は一人では生きてゆくことは出来ない・多くの人やものに支えられ・生かされることによって生きている…【心の整理整頓のありかた】を御示し下さいました。

今の時代、一番求められているのが【ぬくもりの心】一番忘れているものが【思いやりの心】だと言われます。 次々と胸痛めるニュースを見聞きするたびに【本当だナー】とうなずいている方も多いのではないのでしょうか。

春は【出会いと別れの季節】です。どうか御互いに心の整理整頓を心がけたいものであります。


厚岸町 吉祥寺
斎藤 章彦さん


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2010年3月20日放送

今日は春のお彼岸の三日目になりました。冬の長かった北海道のこの地も、ようやく春になって雪解け水が沢を満たし、木々に大地に潤いをもたらすようになりました。そんな好時節の春のお彼岸は、まさに心のオアシスと言ってもいいのではないのでしょうか。

私は団塊世代まっただ中の一人です。ITやインターネット等なかなかついていけません。特に現代社会はあわただしく、時の流れをとても早く感じています。そんな世相の荒波に飲み込まれないためにも、一週間心を落ち着けてご先祖様をしのび、手を合わせることによって自分の気持ちを今一度しっかりしたところにおきたいものです。

お彼岸は日本独自の仏教文化としてとても大切な行事です。 このお彼岸に、亡き父母を想い、亡きご先祖さまに感謝の気持ちで、ご供養するということは、自分の命の根源に手を合わせるということです。父母を愛し、ご先祖さまを愛するということは、自分の命の根源を愛するということです。 ご先祖さまのおかげで人間としての命をいただいている私たちがいます。そう考えると手を合わさずにはいられません。手を合わせるということは、心を合わせることであり、心を合わせるということは命を合わせることでもあります。

ご先祖さまと強い絆で結ばれている私たちです。これからも感謝の気持ちを忘れることなく、心をこめてご供養をしていくことが、私たちの幸せへとつながってゆくのです。


安平町 見龍寺
守屋 敬道さん


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2010年3月13日放送

道元さまは、人にものを言う時には、その言葉が御仏の教えであるか?その人の幸せとなるか?今言うべきなのか?と三度考えた後相手の幸せを願って言いなさい、と説かれました。相手の立場に自分を置き換えて考えることをしなければ時として、人の心を傷つけたり、諍(いさか)いの元ともなります。又、自分では良いことをしてあげたと満足していても相手にとっては「迷惑」と思われる事もあります。

数年前の正月でした。Aさんの家で年始のお経のあと、私が「今年は孫さん達は来ないのですか?」と尋ねると「何が不満なのか嫁が連れてきてくれないのです。方丈さんから正月くらい顔を見せてやりなさい、と言ってくれませんか?家の人が淋しがっていますので」とお母さんから頼まれました。私はお嫁さんと同級生です。心配になり電話をしました。

すると彼女はこのように話してくれたのです。「お父さんもお母さんも、とても良い人です。でも子供達を連れて行くと、甘やかして夜も遅くまで起こしています。毎月小遣いを決めて、高価な物は誕生日まで我慢させているのですが、一万円もする物もすぐ買って呉れるのです。この頃は、欲しい物があるとお爺ちゃんに電話して買ってもらうと反抗したりします。ですから子供の教育の為にも連れて行けないんです。方丈さんから、うまくお母さんに伝えて下さい。」と言われました。

納得した私は、数日後、注意深く、相手を傷つけないように、おばあちゃんにお嫁さんの気持を伝えました。すると、おばあちゃんは「私も子育ての時、同じ事で悩んだ事があったのに、すっかり忘れていました。本当に良く分かりました。」とお礼まで言ってくれたのです。

そして次の正月には賑やかな孫達に囲まれた幸せ一杯のAさん御夫婦とお嫁さんの笑顔が私を迎えてくれたのでした。


枝幸町 長林寺
島崎 敬三さん


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2010年3月6日放送

昨年の十一月のことです。ブラジルのサンパウロ、曹洞宗大本山別院、佛心寺、開教五十周年のお祝いの法要に参加して、その帰りにニューヨークに寄りました。なんとあの有名な五人組「スマップ」がブロードウェイに全員集合したのと、ちょうど同じ時期でした。マンハッタンで摩天楼を仰ぎ、世界同時多発テロの被害にあった、ツインタワービルの跡地で慰霊をした翌日、特急列車で私はワシントンに向かいました。アーリントン墓地でケネディ大統領のお墓参りのついでに、オバマ大統領は不在でしたがホワイトハウスの前で、私はもの凄い人に出会ったのです。

彼女ピシオットさんは、当時勤めていた領事館や国連を辞めて、一切の家財を投げ打ち核兵器廃絶の為に、三十年近くも路上生活をしながら平和運動を続けているのです。立て看板の広島・長崎の大きな被爆写真に目がとまります。それは幼い子供を抱いた悲惨な姿でした。「ベットの感触なんて私覚えていないわ。」真っ黒く日焼けた顔のシワが長い歳月を表していました。先月、ワシントンは大寒波が襲い、大雪被害のニュースが流れていました。どうしているのでしょう。「ここで死んでもいいの!地球から核爆弾がなくなるまで私座り続けるわ!」握手した手の温もりが熱く伝わってきたのを思い出します。この反核おばさんのド根性と明るい笑顔に感動と勇気を貰いました。私はこの人にこそノーベル平和賞をあげたいなと思いました。

私達はノーベル博士がダイナマイトを開発した事を悔やんで、この賞を遺言した事を決して忘れてはいけません!戦争のない世界が一日も早く訪れることを、お祈り致しましょう。


札幌市 薬王寺
田中 清元さん


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2010年2月27日放送

厳しかった寒さの季節も、ようやく峠をこえようとしています。凍てついた北海道の冬の夜、私はたびたび澄み切ったえりもの空を眺め、星の輝きに魅せられました。

「真砂(まさご)なす 数なき星のその中に われに向かひて 光る星あり」

明治の歌人、正岡子規がよんだ歌ですが、こぼれるような星空の中で、自分だけに語りかけてくる、たった一つの星に出会うことができたらすてきですね。

私たちが星の輝きに美しさを感じるのは、それが微妙に変化しながら、またたき続けるからです。宇宙物理学者の佐治晴夫(さじ はるお)先生は、星がまたたくときの光の強さの変化を“ゆらぎ”と呼び、大気がゆらめくせいで、光の道筋が変わり、光の量が増えたり減ったりするように見えると説明しています。佐治先生によると、星のまたたきの“ゆらぎ”と私たちがとても安らかな気分でいるときに出てくる脳波の強さの“ゆらぎ”に共通性があるそうです。そんな話を聞くと、ますますあの無数の星の一つが、私を呼んでいるような気がします。

夜空の星は、私たち人間に宇宙の存在を教え、同時に私たち自身も宇宙の一部であることを教えてくれます。私たちは地球という小さな天体の住人として生まれましたが、この地球も広大な宇宙の中の存在です。そして、その小さな天体に住む私たち一人ひとりは、とても小さな生命ですが、宇宙の長い歴史のなかにあって、たった一人の、今という瞬間にしか存在しない、かけがえのない生命(いのち)なのです。
もし宇宙に意志(こころ)があるとすれば、宇宙でたった一人しかいない、この自分を大切にするよう望んでいるのだと、思わずにはいられません。


えりも町 法光寺
  佐野 俊也さん


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2010年2月20日放送

昨年の12月、インドを訪れ、お釈迦様に関係深い地をお参りしてまいりました。
お釈迦様は今から2600年前に80歳でお亡くなりになられました。 80歳を迎え、自分の最後もそう遠くはない、そう感じられたのでしょう。自分の生まれ育った地にて最後を迎えたいと、当時住まわれていたラージギルという場所から、お生まれになったルンビニーへ約400kmにも及ぶ最後の旅を始められました。
しかし、その思いは届かず、途中クシナガラという地にてお亡くなりになりました。 私たちの旅の3日目は、お亡くなりになったクシナガラより、出発点ラージギルへの道のりでした。

途中、ヴァイシャーリーという町を通ります。この町は生前お釈迦様が大変好まれた町と言い伝えられています。長い距離の移動でしたので、その町へ到着したときはもう夕方でした。緑の芝生の中にたたずむ赤茶色の煉瓦の遺跡、それを囲むように茂るマンゴーの木々。少しほこりっぽい空気の中で、夕日が真っ赤に大きく浮かび上がります。そんな美しい景色をみていると、2600年前にお釈迦様がここに立ち、弟子たちに説法しているご様子が目の前に浮かぶようです。

お釈迦様はこの地にてこうおっしゃったと言われています。

「この世界は美しいものだし、人間のいのちはすばらしいものだ」

それは、2600年前から続いている私たち人間へのやさしく、力強いメッセージです。今のような時代だからこそ、もう一度いのちのすばらしさを感じ、感謝することが必要なのではないでしょうか。このメッセージをしっかり受け止めていかなければいけない。ヴァイシャーリーの景色を見ながら、そう私は感じました。


北見市 白麟寺
副島 豊道さん


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2010年2月13日放送

あなたは、「心の平穏」をどんな時に感じるでしょうか?
家族団らんのひととき、ひとり趣味に没頭するとき、旅に出て美しい景色を見ながらたたずむとき、気が置けない友達と時間を過ごすとき、あるいはお仏壇に向かって静かに拝むとき、いろんな場面がありますが、家族団らんの時間がない、趣味にさく時間がない、もう何年も旅に出たことがない、気が置けない友達はそれぞれ忙しい、うちには仏壇がないなど、心に平穏を感じることが今は難しい時代と言えるのかも知れません。

お釈迦様は、「心の平穏」のことを「ネハン」と言われ、その心の平穏を乱す原因を三つ示されています。
一つは、「自分の心にかなうものをむさぼり求める心」です。小さな子どもが買い物をしているときに欲しいものを買ってもらえるまでおねだりし、親を困らせる光景が思い浮かびます。
二つめは、「いかりを抱き人を憎む心」。
三つめは、「道理をわきまえる智慧のない愚かさ」です。
お釈迦様は私たち人間の内なる苦しみの原因をこの三つに集約し示されましたが、この三つに苦しめられることなく生きることは容易ならざることです。

時に心の平穏は、ささやかな「幸せ」を感じることができれば得られるものです。 「幸せは得るものでなく、感じるもの」です。宝くじがあたったとか、試験に合格したということではなく、今日も朝目が覚めた、ご飯を食べることができた、そんな当たり前のことに平穏を感じることのできる心を見つめる時間をもちたいものです。


苫前町 晃徳寺
坂川 資樹さん


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2010年2月6日放送

ヒトとヒトとの絆。我々は一人で生きている訳ではありません。様々な人間関係、人間同士の絆によって、生かされているのです。

それでは、その『人間同士の絆』をより高め、より深める方法とは何か?
その方法の一つに『言葉を大事にする』というものがあります。
相手を思いやる心から生まれた言葉。 相手のことを考えた、温かい言葉。
ですが、このような言葉づかいを、最初から完璧に行うというのは難しいかもしれません。

まずは第一歩として、挨拶から。 本当の気持ちが込もっていれば、『おはようございます』『こんにちは』『ありがとう』という、日常の挨拶だって、『相手を思いやる温かい言葉』になるのです。
ですが、あなたが普段口にしている挨拶、もしかしたら、台本に書かれた台詞(せりふ)、棒読みの挨拶になっていたりはしませんか?

先日のことです。おそらく、『このような時にはこう応対しなさい』と、従業員用の接客マニュアルが存在するのでしょう。 たまたま不慣れな従業員だと思うのですが、『マニュアル通りの台詞』『棒読みの挨拶』に違和感を受けたのを、今でも覚えています。

『決められた台詞を、決められた通りにただ言う』そこには、『相手を思いやる心』があるとは、言えないでしょう。 周りを見渡せば、世の中には『棒読みの言葉』が氾濫している事に気付かされます。
だからこそ、もう一度、問いたいのです。 あなたが普段、口にする挨拶…棒読みの台詞になっていたりはしませんか?
心の込もった『ありがとう』。心の込もった『おはようございます』これらを普段から当たり前に言える…そんな自分自身をめざしてはみませんか?


厚岸町 吉祥寺
斉藤 章道さん


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2010年1月30日放送

私たちが、お仏壇にお供物や食べ物をお供えするということは、大切な供養の一つです。

二年ほど前のことですが、家の仏壇にヨーグルトが供えてありました。聞くとお客さんから子供達への頂き物、とのこと。
人様から何か頂いたら先ず仏壇にお供えするというのは昔の話なのだろうか。いや、今もそうである。そうであってほしい。
当時四才の三人兄弟の末の子が仏壇に上げたらしいそのヨーグルトの上に、お店でもらったと思われるプラスチックのスプーンも一緒に添えられていました。そのスプーンを見た時、私は『ヨーグルトを食べる時スプーンが必要だよな』と素直に思ったものです。

御飯を食べる時には箸が必要です。御霊供膳にも箸をそえてお供えします。ただ、ものを上げれば良い。少ないと見映えが悪いから「それなりに」という見栄を張ってしまいがちです。それは体裁をつくろっているに過ぎないことでもあります。

しかし、子供が添えたスプーンには「どうぞ召し上がれ」という気持が込められていました。その素直な気持、心がうれしく感じられました。ふだん私が忘れがちな心を思い出させてくれました。

「どうぞ召し上がれ。そして私達もいただきます」 その心があって、お仏壇にお供えした、お供物や食べ物が本物の供養になります。亡き人と私が一つになります。 子供の素直な行いから、大切な供養の心を頂いた出来事でした。


北見市 高雲寺
佐伯 正純さん


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2010年1月23日放送

「一生懸命尽くしているのに裏切られてばかりです」と、よく耳にします。
人は人に期待をし、その期待があるがために尽くしたりします。 しかし、結果として自分が思うようにならなかった場合、それが裏切りに見えたり、更には失望へと繋がっていきます。
実はこの「期待」に問題があるのではないでしょうか?

「期待」という言葉の中には相手に対して「〜をして欲しい」という欲望が少なからず見え隠れします。ましてや人が自分の思うようになるはずがないのに、期待を膨らませてしまいがちです。期待よりも結果のほうが小さいとき、裏切りとか、失望を感じたりします。
しかしこれは相手に問題があるのではなく、期待をよせた自分に問題があるのではないでしょうか?

もし、これが期待ではなく「希望」であったならば如何でしょうか?
希望はなかなか叶えられないものです。もし叶えられたら些細なことであっても、とても嬉しいものです。 期待を持つと裏切りや失望を感じる反面、これが希望であったならば喜びになっていたのでは、という経験はありませんか?

絶対とまでは言えませんが、多くの場合、期待から希望へと切り替えると苦しみから脱却できます。 もし、今、何かに「〜して欲しい」と期待しているのならば、「〜だったら良いのに」という希望へと切り替えてみて下さい。 失望することが少なくなり心が楽になります。 このことは、何事につけても言えることなので、是非、試して頂きたいとおもいます。


札幌市 瑞現寺
斉藤 正憲さん


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2010年1月16日放送

お檀家のお父様が癌を患い、入退院を繰り返していました。ある時、ご自宅にご先祖様のお命日でお伺いをした時、たまたま外泊でお帰りになっておられました。

御回向が終わりお茶をいただきながら世間話をしていると突然こんな話を切り出しました。
「方丈さん、俺こんな病気にかかってしまって生きてきた意味があるんだろうか」と。
その時私はドキッとしながらもこう答えました。

「私はお父さんと出会い、様々なことを学びました。それが恐らく私の力となり、これから出会うであろう苦しんだり悲しんだり、或いは病んだりしている人の心に寄り添う力になるかもしれません。目には見えませんがお父さんは家族を含めた多くの人にそうやって力を与えてきたはずです。そこにお父さんが生きてきた意味があると思います。」
そう言うと大きくうなずき大粒の涙を流しながら私の手を強く握りました。

オーストリアの精神科医でエミール・フランクルはアメリカで驚異的ベストセラーとなった「夜と霧」という本の中で「あなたを必要としている何かがどこかにあり、あなたを必要とする誰かがどこかにいるはずです。そしてその何かや誰かはあなたに発見されるのを待っている。」とナチスの強制収容所での体験を通して書いています。
人生で起こる総ての事はどんなことにも意味があります。だから私達が生きている事には当然のことながら大きな意味を持っています。
そのことを常に信じて力強く生きていきましょう。生きている事で誰かがどこかで大きな励みとなり力となっている事を信じて今日も明日も精一杯、生き抜きましょう。


当別町 全久寺
白井 應隆さん


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2010年1月9日放送

殺伐としたこの時代、親切な言葉を掛けられても相手の心の裏側に何か有るのではと素直に受けとめられないという難しく淋しい世の中になってしまった様な気が致します。
「人と接して仏となる」これは私の本師が示してくれた言葉の一つです。
自分と気持ちが合う人でも合わない人でも、様々な人と接する事が人生の糧になる。
しかしストレスの多い今の社会では人と接する事で逆に心の病にかかる方も増えたようです。

よく人から元気をもらうという事を聞きます。これは相手からの励ましの言葉に元気をもらう事は勿論ですが、それ以上に元気づけようとする相手の気持ちがその場に温かい雰囲気をつくり、その優しい空気が自分の心を穏やかにし元気を取り戻す事が出来たのではないでしょうか。
人と接している時のその場の空気は自分達が発しています。勿論これは酸素や二酸化炭素等の科学的な成分の事を言っているのではありません。
優しい会話の時には優しい空気、厳しい会話の時には厳しい空気、真剣な時には真剣な空気がその場に生まれます。知らず知らず生み出されている気、雰囲気の事であります。そしてその空気を生み出しているのが私達の心です。

供養の養は「養う」という字です。これは私達が誰しもが持っている「仏心」つまりは人間らしい優しい心を養う事、育てる事であります。そしてその心を養う場がお寺での行事であり、皆様方が営まれる法事等の先祖供養です。一心に手を合わされるその場には真剣に亡き人を思う篤き空気が満ち溢れます。この空気をいっぱい吸う事で疲れた心を洗い流し、優しい心という栄養を与えてくれます。

殺伐とした世の中は誰のせいでもなく一人一人の疲れた心のその結集です。
自分達で心を養う努力し明るい世の中にしたいものであります。


南幌町 菩提寺
岩井 淳一さん


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2010年1月2日放送

みなさん、明けましておめでとうございます。曹洞宗北海道管区教化センター統監 藤原重孝です。
今年もまた「曹洞宗の時間」を宜しく御聞き取りくださいますようお願い申し上げます。

さて、数年前のある雑誌の調査によると、札幌市の成人男女の約60%が「人生、やりなおしたい派」なのだそうです。
人生は一日一日・一時一時の積み重ねの結果です。「失敗した」「やりなおししたい」という反省や後悔が、より良い人生をつくりあげる力にもなります。
映画作家の大林宣彦さんのお父さんは「他人のようにウマくやるよりも、自分らしく失敗しなさい」と、失敗を恐れない生き方を示されたそうです。

昔、中国の雲門禅師という方が、集まった大勢の修行僧に問いかけました。
「今までのことは問わない。今日、たった今から以降のおまえたちの生き方をひとことでいってみよ」と。
なみいる修行僧に即答するものがいないのをみて、禅師はみずから「日々これ好日」とこたえられたそうです。

私たちはだれしも、さまざまな人間関係・社会との関係などがびっしりと絡み合って、この世で生きて、生かされています。ですから人生をリセットすることはできないのです。
しかし、たとえ失敗しようがつまずこうがいまのこの日を「好日だ」と感じることができるはずです。

人生やりなおしたい派の方も、あるいは、そうでない皆さんも、一日一日・一時一時を、よりよく生きることを心がけて、「日々これ好日」で過ごされることを、心からお祈り申し上げるものであります。


※参考文献 札幌人大調査(平成二年刊)


曹洞宗北海道教化センター
統監  藤原 重孝


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