「百不当のちから」
おはようございます、倶知安町 孝運寺 高橋昌宏です。
「いまの一当は、むかしの百不当のちからなり、百不当の一老なり」
これは曹洞宗の開祖である道元禅師様の主著「生法眼蔵」の中のお言葉の一つです。
百不当とは、弓でまとを何度も射るが、いっこうに当たらないこと。しかし失敗を重ねながら修練を積むことによって、やがて的に的中する。その一当てはこれまでの百不当のちからであり、百不当の一老、すなわち修練の蓄積である。
私の住むお寺のすぐ横に小学校があり、時間がある時はそのグラウンドに向かい、少年野球の練習の手伝いをさせていただくことがあります。私自身も小学校から高校まで野球部に所属し、白いボールを追いかけてきました。子共たちはその練習の中で、たくさんの失敗をします。
もちろん最初から上手くいくことの方が少ないです。何度も何度も失敗を重ね、どの子も月日が経つと野球が上達してきます。これまで出来なかったプレーが出来るようになった時は、私も、自分のこと以上に嬉しくなります。その成功には間違いなく、これまで失敗してきた経験が活きている。野球を通じて子供たちから私も教わっています。
子供であっても大人であっても、失敗は人生につきものです。失敗して落ち込むことも私だってたくさんあります。そんな時にはこの言葉を思い出すようにしています。
失敗が自分を大きくし、失敗してこそ自分が見えてくる。努力を重ねていくと次は上手くいくかもしれない。ここで諦めないで成功するまで続けてみようと。
苦労をしないで何かに成功した時は、必ず百不当のちからが込められている。皆さんの百不当のちから、その蓄積が実ることを心より願っております。
高橋昌宏