「優しさのバトン」
私は僧侶になる前の大学生時代に、小学校で学童保育と呼ばれる放課後教室のお手伝いをさせていただきました。
これは心地良い春の日の出来事です。
満開の桜を前にして『春』をテーマにした工作をすることになりました。
それぞれ色付けをし、しばらく室内で乾かす為、上級生の女子生徒二人が代表して皆の作品をまとめて室内に運んでくれました。
しかし、女子生徒二人の不注意で転倒してしまい、運んでいた皆の作品を全て廊下に落としてしまったのです。
生徒たちが何時間もかけて作った作品でしたが、残念ながら破損してしまったものがほとんどです。
他の生徒がこの事実を知ってしまったら、この子達はみんなに責められてしまうかもしれない。
私はそんな不安にかられました。
しばらくすると、他の生徒らが心配をして二人がいる治療室へ来たのです。
「大丈夫かい?怪我はない?心配しなくていいからね!また一緒に作ろうね!」
子供たちから出てくる言葉は私の不安を吹き飛ばすくらいどれも純粋な愛のある言葉ばかりで、誰一人として二人を責める生徒はいなかったのです。
次の日、また同じ作品を仲良く作る子供たちの笑顔は、まるで満開の桜のようでした。
『愛語というは、衆生を見るに、まず慈愛の心を発(おこ)し、顧愛(こあい)の言語を施すなり』
これは曹洞宗の開祖である道元禅師様のお言葉です。
優しさの言葉、それが愛語。
年齢問わず、ほんのちょっとしたコミュニケーションで簡単に叶うものなのです。
ほんのすこしの優しさが大きなバトンとなり、そのバトンを相手に渡していくことが出来れば、自然と見えてくる景色はきっと清々しいものになるでしょう。
守屋 竜斗