法話

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2011年11月26日放送

法話   2011/11/26
2011年11月26日放送

先日、あるお檀家さんの家にお伺いしたとき、小さなお孫さんが得意気に話しかけてきました。
「ねぇ知ってる?『親』っていう字は、木の上に立って見るって書くんだよ。」
「へぇ、そうなんだ。よく知ってるね。」
「……あれ?でもうちのお父さん木登りできない……」
学校でそう習ったのでしょう。聞いている私も微笑ましくなるような言葉でした。
私もこの話は子供の頃教えられました。「親は子供のことをいつも見守っているものだ。だからこのように書くんだよ」と、親の大切さを説明されたのを憶えています。 親だけではありません。我々の前に累々と続くご先祖様、そしてその先祖をお守りしている仏さま。実に数多くの方々に、私たちは慈悲の眼で見守られています。
この「慈悲」という言葉、慈しみの他に「悲しい」という字が使われているのはなぜでしょう。これは、私たちのよくないところ、直した方がよいところを見て「こうすればもっとよくなるのに残念だなあ」という心配をしてくれる心なんです。 つまり我々は数え切れないほど多くの人から、よいところは伸ばされ、悪いところは直される、ありがたい視線を送っていただいているわけです。
ところが我々は普段、自分のために何かをして欲しいと「願う」ことはしょっちゅうなのですが、その自分自身が「守られている」「願われている」ということには、意識しないとなかなか気づきません。 普段守られ、願われていることに気づき、こちらからもお礼の気持ちで恩返しをする事が、供養に繋がっていきます。
「慈しみの眼をもって衆生を視れば、福の聚(あつ)まること海のごとく無量なり。」
お経の一節にあるこの言葉を、見守られている我々の立場で訳すとこうなります。
「皆に慈しみの眼で見守られているので、我々には幸せが海のように集まってくる。」
お仏壇の前、お墓の前、ご先祖様を思うとき、このことを思い出し、一言「いつもアリガトね。」の言葉を付け加えてみるのも、いいかもしれません。

函館市 高龍寺
永井 正人

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