2011年11月12日放送
法話
2011/11/12
2011年11月12日放送
この世の中、お金を借りるにせよ就職においてもきびしい誓約書に署名捺印しなければならないし、学習を目的にする学校の入学においてさえも、そうした手続きをすることが必須条件とされている。 男女が愛情を確かめ合ったうえでの結婚式をあげるときも、当然やらなければならない儀式の順序で、誓いのことばを取り交わした上に、三三九度という固めの盃を交わし、その結び付きをたしかなものとして安堵する。 なにゆえに対人関係において我々は、そういう煩わしい手続きをふまなければならないのか?理由は簡単である。人間不信へのあがきである。
証書を入れ、誓いを取り交わしたからそれが絶対のもの、というのではなく、証書を反故のごとく扱い、誓いを踏みにじる事例は色んな分野において世間にいっぱいあってさまざまな悲劇を巻き起こしている。 そのことを知らない者は居ないと言っていいにも関わらず、尚且つその頼りにならないものに寄りかからなければ安心できないのが人である。
人間の心、そこから出る言葉は、それほど信用がおけないということは、初めっから嘘の塊としてあるのではなく、いつ何時変わるかもしれないという無情性があるということである。 宗教とは、その無情性をみつめることによって、その寂しさを悲しむ心であり、自ずから底抜けに相手を信じようと志向する願いが生まれてくる。
証書や手続きを抜きにしての繋がりこそ、貴重なものとして、儚い人間関係の中に、そういう温かいものを一つより二つ、二つより三つというふうに輪を広げたいものです。
岩見沢市 禅洞寺
渡辺 孝文
渡辺 孝文