法  話

HBCラジオ「曹洞宗の時間」(毎週土曜 午前6時15分〜6時19分)にて放送された、
北海道各地のご住職の法話を掲載しております。
また、実際にラジオで放送された音声データの配信も行っております。

ポッドキャスティング 配信データ

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7月 2017/7/29
「命」

2017/7/22
「進路」

2017/7/15
「心配事の九十六%は」
2017/7/8
「調息」

2017/7/1
「文月」
6月 2017/6/24
「心がけ」
2017/6/17
「身、口、意」
2017/6/10
「礼拝」
2017/6/3
「今を生きる」

5月 2017/5/27
「光陰虚しく度ること莫れ」
2017/5/20
「はづべくんば明眼の人をはづべし」
2017/5/13
「物事を正しく見る」
2017/5/6
「人間、ひき際が肝心」

4月 2017/4/29
「作稀勢」

2017/4/22
「待つということ」

2017/4/15
「幸せになるために」
2017/4/8
「花祭り」

2017/4/1
「万物尖新(ばんもつせんしん)」
3月 2017/3/25
「逃げるは恥だが役に立つ」

2017/3/18
「匙は、その味を知らず」

2017/3/11
「禅師と饅頭」

2017/3/4
「祈る」


2月 2017/2/25
「奇跡」

2017/2/18
「善い行い」

2017/2/11
「明珠在掌」

2017/2/4
「小さなほとけさま」


1月 2017/1/28
「お不動さん」

2017/1/21
「洗面・歯磨き」

2017/1/14
「無功徳」

2017/1/7
「感謝」



 ▼過去の放送分
 2016年 2015年 2014年 2013年 2012年 2011年 2010年 2009年

2017年7月29日放送「命」

私たちの住む地球上に、生命が誕生してから、約三十八億年の時が流れています。
この間、無数の生物が、「生まれては死ぬ」という歴史を、繰り返し続けて来ました。

私たちは受精の瞬間から死に向けて時を刻みはじめ、必ず死を迎えるようにプログラムされています。一方、私たちの身体の中には、生殖細胞と呼ばれる一群があり、この細胞は親から子へ、子から孫へと連続して遺伝情報を伝える働きを持っています。
私もまた両親の生殖細胞から出来たのであり、その細胞は三十八億年の生命を綿々と繋いできたものです。一個の生物として考えるとき、人間はせいぜい百年余りの有限な命でありますが、その人間を構成している細胞は、「三十八億年の歴史を持っている」とも、言えるのです。

曹洞宗大本山永平寺をお開きになった道元禅師さまは「生ずることと滅することは、その表裏一体性において受け止められるべきものである」(『正法眼蔵 授記』)とお示しです。
現在地球上に生息している生命よりも、三十八億年の間に死滅した細胞の方がはるかに多いという意味で、命は大きな死の河の一筋の流れに過ぎません。
しかし、一人の生命の働きは終わっても、その命の本質は、次の世代にもしっかりと受け継がれるのです。

儚さの中に煌いている命。お盆の季節が近づくたびに私は、その深さと尊さに想いを寄せ、「伝えられた互いの命を、精一杯輝かせたい」と、強く願うのであります。


えりも町 法光寺
佐野 俊也


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2017年7月22日放送「進路」

昨年、幼い頃から知っております大学生のA君から進路相談を受けました。

A君、曰く『自分にどんな仕事が向かいてるのかわからない。やりたい仕事も見つからない。』との事。
私は彼にこう伝えました。『最初から、仕事に向いている人なんか、いるんだろうか?やりたくて、やりたくて、その仕事に就く人は、何割位いるんだろうか?
友人に球場を整備する『グランドキーパー』と、いう仕事をしている人がいる。彼は、小学生の頃から野球を始めプロ野球選手になりたい。と長い間思っていた。でも、結果的には、なれなかった。それでも、野球に何らかの形で携わりたい。と、考え働き始めたんだ。
今では、応援に来てくれる人に喜んでもらいたい。いつも土や芝の状態が気になる。と、話していたよ。彼は、強がりを言っているのでは、無く本当に今の仕事が好きなんだ。
仕事とは、長く続けるうちに、誇りであったり、遣り甲斐・喜びを見つけていくのでは、ないだろうか?
もし仮に、仕事が向いてない。もう無理だと思ったら、又、おいで。その時は、頭を剃ってお坊さんになろう』と、笑って伝えました。

頷いてお寺を後にしてから一年が経った、今年の四月、A君から『初任給で買いました』と書かれたメッセージカードとクッキーが届きました。
頑張れA君。そして、今、頑張っている君達よ!皆が応援している。


黒松内町 洞参寺
小林 正胤


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2017年7月15日放送「心配事の九十六%は」

「心配事の九割は起こらない」

これは、昨年の北海道管区「禅をきく会」におきまして、講師としてお越しいただきました、横浜市建功寺のご住職であり、また庭園デザイナーとしても世界的にご活躍の枡野俊明老師が著された本の題名です。
この本の題名を見たときに、もとより物事をいい方に考える私は不思議とこのことをすんなりと受け入れました。よくよく考えますと、いや本当に九割も起こっていないのかなと考えたりします。

アメリカのある研究結果によりますと、実際に心配事の八十パーセントは起こらないという研究結果がだされております。残りの二十パーセントのうち十六パーセントは準備していれば避けられるもの。
実際に起こりうるのは残りの四パーセントのみであるというのです。この四パーセントは我々にはどうしようもないこと。いくら準備して用心していても起こる事ですから心配してもどうしようもありません。
その他の心配事の九十六パーセントは起こらない、または準備していれば避けられるものなのですから、いかに起こりもしない事に対して多くの無駄な時間を費やして悩んでいるのかということになります。
その心配事の九十六パーセントが起きないのであれば、そのことに悩んでいる時間をほかのことに費やす事ができます。

この枡野老師の著書の中でもこの不安や心配事から解放される為の様々な教えが説かれておりますが、その中の一つでもあります、まずはどうにもならないことを受け入れること。そして過去に執着せず、今すべきこと、今やっている事を精一杯実行し時間を費やすこと。
無駄な事を削ぎ落として今をしっかりと生きる事に専念いたしましょう。その精一杯の今の積み重ねが豊かな未来となるのです。


岩見沢市 孝禅寺
安彦 智峰


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2017年7月8日放送「調息」

イライラする事があった時や、モヤモヤして気持ちがスッキリしない時に皆様はどうやって気持ちを切り替えていますか。
外に出て散歩をする。好きなスポーツで汗を流す。音楽を聴くなど人それぞれ気分転換の方法が有ると思いますが、私がおすすめする方法は深呼吸をする事です。
ゆっくり息を吸ってゆっくり息を吐く。これを数回するだけで心が落ち着いていきますので、時間が無い方には特におすすめします。

さて、皆様は普段意識をして呼吸をする事はあるでしょうか。空気を吸って吐く。生きているからには呼吸は当たり前にすることで、考えた事がない人の方が多いのかと思います。むしろ意識してしまうと違和感を覚えてしまう方もいるかもしれません。

道元禅師様は「普勧坐禅儀」に
「鼻息微かに通じ、身相既に調えて、欠気一息し」と記されております。
私は坐禅をする時、初めに座る姿勢を調えてからゆっくりと三回くらい深呼吸をして息を調えるようにしています。息を調えてからはゆっくりと静かな呼吸を意識しながら座るように心がけていますが、日によっては呼吸が乱れてしまい、姿勢も乱れてしまって心も乱れ散漫になってしまう事もあります。しかし、この呼吸が調った時は清々しさを感じる事もできます。

このストレスに満ち溢れている日常、皆様も姿勢を正して深呼吸をして息を調えて座ってみてはいかがでしょうか。


小樽市 正林寺
小泉 義道


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2017年7月1日放送「文月」

早いもので今日から七月となりました。日本では古来、文月(ふみづき、ふづき)と呼んでおりますが、これは短冊に歌や字を書き、書道の上達を祈った七夕の行事に因み、「文披月(ふみひらづき)」が転じたとされる説が有力なのだそうです。

その七夕と言えば7月7日となりますが、これは旧暦での話で、いわゆる新暦を採用して以降は毎年、日にちが異なるのだそうで、例えば旧暦の七月七日にあたるのは今年は八月の二十八日。しかし、毎年日にちが違うのでは都合が悪いということで、旧暦の七月七日の日付だけをそのまま残して、新暦でも七月七日に七夕を行っているのだとか。

そんな旧暦の影響を受けているものにお盆があります。お盆休みといえば八月というのが主流となっておりますが、旧暦では七月十五日。現在でも東京などの一部の地域、北海道内でも七月にお盆参りを行っている地域がございます。
暦によっては旧暦を記してあるものもありますが、二十四節気や七十二候など、日本の風土を表すには旧暦のほうがしっくりくるような気がしますね。

暦の上では明日は半夏生。大本山永平寺では一年間の行いを顧み、自らを反省し懺悔する法要、大布薩講式が営まれます。
二時間以上にもわたる法要で、そのほとんどが正座と合掌。永平寺での修行中にはとても苦痛でもありました。日頃の行いを反省し、また新たな気持ちで日々を迎える。苦しい法要ではありましたが、終わった後の気持ちは一層清々しいものでもありました。

罪の大小にかかわらず心から反省の気持ちを起こす。反省の心を持って日々生活してまいりたいものです。


岩見沢市 孝禅寺
安彦 智峰


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2017年6月24日放送「心がけ」

長すぎる老後は生き地獄なのでしょうか。「八十九十まで生きたりとてそれで沢山といわれぬのが命。錦の帳の内に傅(かしず)かれて、氷菓子を末期の水にしても、満足のできぬは死なり」と。

何となく生き、何となく死ぬ中流の時代はいつのまにか過ぎ、祭りのあと限界まで生き、仕方なく死ぬといわれる今の世の中では、お金はいくらあっても不安かもしれません。誰も親しい人がまわりにいなくなっても一人で生き続けねばなりません。

新郷由起(しんごう ゆき)著『絶望老人』はなぜ生きているのかわからない、これまで考える時間がなかった人々。いつまで生きるのかわからない、じんわりじっくり日一日が心身に堪えていく人々。真綿で首を絞められるような苦しみの中でもがく人々の姿を描いています。

小さな絶望から生まれた無限の宇宙のような漆黒の孤独と恐怖が、私たちをさし招きます。孤独と恐怖に打ち克ち、絶望からこそあなたの祈りは生まれることを信じましょう。今日のこの一日の命を、今日はこれに挑戦しようという希望からはじめましょう。そして一日の命への感謝をこめて笑顔で休みましょう。バラ色の未来とは、夕暮れの茜色の空だといいます。老後にも明日、未来はあるのです。

一日一日と「心がけて生きるのは面倒と言えばこれほどやっかいなものはありませんが、又楽しみとすれば是ほど面白い事はないでしょう。だれも身のために利益少なしとせず、されば金あるものは金をだし、才あるものは才を貸し、暇あるものは暇を惜しまず、出来得るだけ為すべきものか、人の世話は身の世話なり」と明治の文筆家 饗庭篁村(あえば こうそん)は書いています。

よい一日を。お気をつけて。


南富良野町 全昌寺
大神 裕全


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2017年6月17日放送「身、口、意」

仏教では人間の行いは、「身、口、意(しん、く、い)」の「三業(さんごう)」で行っていると説かれています。「身(しん)」は身体の身と書いて行動のこと、「口(く)」は口と書いて発する言葉のこと、「意(い)」は意志の意と書いて心のことです。そして「三業(さんごう)」とはこの三つの事柄が、良くも悪くも結果を招く要因になるということです。

では、出来るだけ悪い結果にならぬよう、自己中心的な心を起こさず、言葉や行動にも注意しなくてはいけない、私はそう考えておりました。

しかし、なかなか上手くはいかず、忙しくなると心に余裕がなくなり、自分は悪くないのだとそう言い聞かせては、周りの方に不適切な態度をとってしまいます。 後から言わなきゃよかった、しなきゃよかったと、後悔する事が多々あります。皆さんはいかがでしょうか。

そんな時、私はあるご老師が言われた言葉を思い出します。老師は言われます「心は見えていないようだけど、人は会ったときから無意識に、その人の心を受け止めている」と。

確かに私達は言われなくても、相手がイライラしているとか、嬉しそうだなとか、なんとなく気付いてしまう事があります。それ程に心とは表に現れやすく、また偽り続けることが出来ないものなのです。

大切なのは感情を抑えて、言葉や行動に注意することではなく、常に穏やかな心で、他者と正直に向き合う事なのですね。穏やかな心が優しい言葉を生み、思いやりのある行動を促します。

今日という大切な一日を、お互いに笑顔で過ごせる様、姿勢を整え、呼吸を整え、心穏やかに初めてまいりましょう。


芦別市 大興寺
田中 貫志


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2017年6月10日放送「礼拝」

皆様は、毎朝目を覚ましてから決まってする日課はお有りですか。

私は洗面を済ませたら本堂で坐禅をします。坐禅が終わったら朝のお勤めをします。「全てのものが幸せでありますように」と祈りを込めて礼拝を重ね、お経をお上げしています。

本堂での礼拝は北を向いて行います。そうすると本堂中央にお釈迦様の像と、左のお部屋に観音像をお祀りしているのが目に入ります。

ある日のことです。私がいつものように頭を畳に付ける礼拝を繰り返す時、頭を上げるたびに観音様のお顔をなんとなく見つめてみました。すると、優しい笑みをたたえたお姿を見ながら礼拝している自分が、いつの間にか笑顔を浮かべていることに気づいたのです。慈しみとあわれみの心を司る観音様と私の心が通じたような気がいたしました。

アメリカで坐禅の普及に努めた鈴木俊隆老師はかつて合掌礼拝についてこのように説かれました。

「合掌礼拝は、非常に真剣な修行です。合掌礼拝をすることで、私たちは自分自身を明け渡します。普通、合掌礼拝は自分よりも尊敬に値するものに対して行います。しかし、ブッダに合掌し、礼拝をするときは、あなたとブッダが一つになるのです。「わたし」と「あなた」という考え方を捨ててしまうと、全てがあなたの先生となり、全てが尊敬の対象になるのです。ブッダがブッダに対して、礼拝をします。あなたがあなたに対して礼拝をします。これが本当の礼拝です。」

鈴木老師のお言葉が深く染み込んでくるのが感じられた朝のお勤めでした。


帯広市 永祥寺
織田 秀道


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2017年6月3日放送「今を生きる」

私の友人に「北極冒険家」という肩書を持つ人が居ます。彼はここ十数年、ほぼ毎年北極圏に足を運び、何も無い同じような景色の中でテントを張って食べて寝て、起きてはまた歩くという私には想像もつかない極地の旅をしています。

気温がとても低いのは言うまでもありませんが、突然の暴風雪や地吹雪が続いて何日も動けなかったり、激しく揺れ動いて割れる氷の上に取り残されそうになったり、その氷が割れて海に落ちたり、寝ているときにホッキョクグマにテントを揺り動かされて目を覚ましたこともあったそうです。

死ぬことと生きることとは紙一重で、洞察力、判断力、行動力をフル活用して、唯「今を必死に生きる」ということに尽きるんだと彼は言います。

私からすれば、そんな大変な思いをしてなぜ何度も北極点に向かおうとするのか不可解だったのですが、彼は「チームで到達を果たせたら次は独りで… 犬ぞりで実現できたら次は徒歩で…」と終着点のない冒険を続けます。

そんな向上心あふれる彼は、今たった独りで、途中一切の食料や身の回り品の補給を受けずに、荷物を全てソリに載せてそれを引きながら歩いて北極点に到達するという、今まで世界でも二人、日本人では未だ誰も成し遂げたことのない『北極点無補給単独徒歩到達』という難関に挑戦しようとしています。

私たちは彼のような過酷な生き方はなかなかできませんが、しかし日々の生活全てに於いて自分で限界を決めずに、今すべきことを為し、更なる次を目指して歩みを進め続けることは大事なことです。それが今を生きるということなのだと気付かされました。


士別市 弘濟寺
藤村 克宗


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2017年5月27日放送「光陰虚しく度ること莫れ」

私達曹洞宗の僧侶が、毎朝のお勤めで読むお経に「参同契(さんどうかい)」というお経があります。

このお経は唐の時代の中国のお坊さんが書いたお経ですが、このお経の最後の一節に「光陰虚しく度ること莫れ」という言葉があります。

日本にも「光陰矢の如し」という言葉があります。
光陰とは月日、つまり時間の経過の事を言うのですが、時間というのは、実に不思議なもので、同じ長さであるはずの一時間という時間も「皆さん、今から一時間黙って正座をして下さい」となると非常に長い一時間になりますが、友達と楽しくおしゃべりをする一時間はあっという間に過ぎ去ってしまうものです。

私達はよく「時間だけが空しく過ぎて行く」という表現を耳にしますが、考えてみますと、時間が過ぎるのに空しいとか空しくないという事はなく、過ぎて行く時間を私達が空しく過ごしたり、有意義に過ごしているのです。

その時によって長く感じたり、短く感じたりする時間。
過ぎ去ってしまうと、あっと言う間に感じられる時間。
そして過ぎ去ってしまうと二度と自分の元に戻って来る事のない時間。
この貴重な時間を私達は今日までどの様に過ごし、今日からどの様に過ごして行けば良いのでしょうか。

今日は五月の二十七日です。
ついこの間年が明けたなぁと、思っていましたら、今年もすでに五ヶ月が過ぎ去ろうとしています。
北海道はこれから夏に向かって一年で一番良いシーズンを迎え様としていますが、今年も残す所あと七ヶ月。
年越の準備にはまだまだ早いと思いますが、私は「光陰矢の如し」「光陰虚しく度ること莫れ」この二つの言葉を今年下半期のスローガンとして今日から過ごしてまいります。


札幌市 常禅寺
目黒 全章


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2017年5月20日放送「はづべくんば明眼の人をはづべし」

曹洞宗を聞かれた道元禅師の語録をまとめた書物に『正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)』というものがございます。その冒頭に、

「はづべくんば明眼(みょうがん)の人をはづべし」とあります。

「はづ」というのは「気にする」という意味、「明眼の人」というのは「物事の道理をよく見通せる人」という意味です。

「はづべくんば明眼の人をはづべし」
つまりこれは、「批判や評価を気にするのであれば、物事の道理をよく見通せる人からのことを気にしなさい」という意味になります。

この世の中で生じる問題の多くは、人間関係によって生じると言われております。人にどう見られているのか、人からどう評価されるのか、それが気になって思っている事が言えない、思ったことが出来ない。という方は多くいらっしゃることと思います。

更に今の時代ですと、パソコンやスマートフォンを使いインターネット上で、いつでも誰でも何にでも自由に評価出来る時代です。名前も顔も知らない人から評価され、それによって喜ぶ事もあれば、ガッカリする事もあるでしょう。自分では素晴らしいと思っている事が、くだらないと言われる事もあるかもしれません。匿名での心無い言葉に悲しむこともあるかもしれません。

そんな時こそ、「はづべくんば明眼の人をはづべし」です。逆に言えば、物事の道理をよく分かっていない人の批判や評価は、気にしなくて大丈夫。ということです。たとえ批判されても嫌な事を言われても、その人が物事の道理をよく分かっていないのであれば、その言葉自体が間違いかもしれません。大切な事は、様々な人の言葉に一喜一憂するのではなく、物事の道理をよく分かっている明眼の人の言葉を気にしてゆくということです

「はづべくんば明眼の人をはづべし」を忘れずに、気にする時は気にする、気にしない時は気にしないようにしてゆきましょう。


札幌市 峯光寺
小野 隆見


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2017年5月13日放送「物事を正しく見る」

視野を広げて、「物事を正しく見る」ことが大切です。こんなことは皆さんよくご存知のことと思います。しかしながら、それがなかなか簡単ではありません。

普段何気なく、色々大事な事を見過ごしてしまっているのではないでしょうか。

禅の言葉に、「板をかついだ男」という意味の「担板漢(たんぱんかん)」という言葉があります。

大きな板を片方の肩にかつぐと、板が邪魔になってしまい、片側しか見えない、反対側が見えなくなるということです。

つまり、物事の一面しか見えなくなる。両面が見えてないから物事を正しく見極めることが出来なくなり、正しい判断も出来なくなるということです。

同じような話に、江戸時代の風外本高禅師様が住職していた、古くなって荒れたお寺に、虻が入って来た時の話です。「虻は外に出ようともがいていました。どこもかしこも隙間だらけのお寺です。そこで、ちょっと落ち着いてまわりを見渡せば、どこからでも簡単に外に抜け出して行けるはずなのに、ここぞと決めたら何が何でも外に出られると思い込み、何度も繰り返しては、同じ障子に頭をぶつけて倒れている。」という話です。

私たち人間も、虻と同じように「この道以外は無い」と間違った思い込みで行動してはいないでしょうか。

いつも、落ち着いて視野を広げ、全体を正しく見極めることによって、不思議なことに今まで見えなかった、本当の正しい道が見えてくるはずです。

それと同時に、今まで気付かなかったあらゆる物がしっかり見え、今まで聞こえなかった鳥の声や風の音までもが聞こえてくるのです。

「物事を正しく見る」ということを心掛けて行きたいものです。


札幌市 禅林寺
日比 健士


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2017年5月6日放送「人間、ひき際が肝心」

今年も春を迎え、私のお寺の前を流れるヤリキレナイ川は雪どけ水がサラサラと流れています。禅語に、「随流去(ずいりゅうこ)」、流れにしたがって去る、とあります。何物にも執着する心なく、自然に任せて生きる禅僧の姿をいいます。

「人間、ひき際が肝心」とは、私が心から敬愛してやまない、道北の枝幸町の長林寺の故島崎光雄老師の口癖です。

老師は戦後、復員してからしばらくの間、地元の小学校で教鞭をとられていました。人一倍努力家で企画力・行動力に優れていた老師は、すぐに頭角を現し、学校にはなくてはならない存在とまで言われるようになりました。

しばらくたったある時、長林寺の当時の住職である島崎素民老師に教員をやめて寺に帰ってくるようにと言われたそうです。そこで老師はキッパリと教員をやめて、長林寺の住職になりました。

その後、街の人々に、町議会議員に強く推薦され、やむを得ず出馬。見事、上位当選を果たしました。教員を辞めなければならなかった時、多くの教員仲間たちが、「島崎先生がいなくなったら、学校はガタガタになる、どうか辞めないでほしい」と懇願されたそうです。そんなこともあったため、議員になって、しばらく経ってから、教育現場視察があり『きっと、学校は俺がいなくなって大いに困り果てているに違いない』と、内心意地悪な期待をもって、久々に元の職場へ行ったところ、なんと、自分が勤めていた頃よりも、しっかりと学校運営がなされていたのを見て、驚いたそうです。と同時に、自分の思いあがった考えを深く反省させられたといいます。

爾来、人間引き際が肝心。何にしろ去る身であればこそ、「去る時は来た時よりも美しく」、そうありたい。という信念を持たれたのでした。

「ゆく川の水は絶えずして、しかも元の水にあらず」今日も、ヤリキレナイ川の水はサラサラと流れてゆきます。何事にもとらわれず飄々と生きられた故島崎老師の如くであります。


由仁町 常福寺
山川 章順


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2017年4月29日放送「作稀勢」

今年の大相撲春場所では横綱稀勢の里が涙の逆転優勝を果たしました。ふだん大相撲を観ることのない私でも、千秋楽での取り組みはテレビにくぎ付けになりました。弱冠十八歳、史上二位の早さで新入幕をはたしたものの、その後はライバルたちに先を越され、それでも一途に精進を重ね、横綱にまで上り詰めたのでした。

稀勢の里の四股名は、師匠の故鳴門親方がつけられたものです。この四股名は、親方が現役時代、親しくされていた、大本山永平寺の秦慧玉禅師に「作稀勢」読み下して『稀なる勢いをなす』、という言葉を頂き、将来横綱になり得る力量の弟子が現れたら「稀勢の里」と名付けようと決意したことによります。
その四股名をつけられた弟子は、時間はかかりましたが師匠の見た通り横綱になり、大勢の人々に感動と勇気を与える相撲を見せてくれているのです。名前のもととなった作稀勢の言葉を贈った秦禅師は、大の相撲好きで有名でした。

私の記憶では、禅師さまが、駒澤大学の教授時代、相撲部の顧問を務められていたころ、集合写真に学生力士の真ん中で、ふんどし姿で腕組みをして収まっている姿を見たことがあります。さらには大相撲のテレビの生中継で、しばしば砂破りで熱心に観戦している姿が映り、全国の曹洞宗の和尚さんたちに、「また、禅寺さまが相撲を観ていらっしゃる」と言われていたものです。
奇しくも今年三十三回忌を迎えた秦禅師さまのお言葉が、年月を隔てて花開いているのを見ると、禅寺さまと故鳴門親方の願いが成就したかのように感じるものです。

生きている私たちの積み重ねている行いや、ことばや、願いは時が流れても消えてしまうものではありません。必ず時を経て実を結ぶことになります。

形見とて何か残さん春は花夏ほととぎす秋のもみぢ葉 有名な良寛さんの辞世の句であります。


札幌市 真龍寺
飯田 整治


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2017年4月22日放送「待つということ」

私達が、「待つ」といった場合、「人」を待つ、或いは「時」を待つということになりましょうか。古い歌ですが、“待ちましょう”とか“待つわ”という曲がありました。これは、自分に素敵な人が出てくる迄、待つという切ない乙女心を歌ったものです。人を待つ心境を、竹久夢二は「宵待草のやるせなさ」と詠んだように、待つというのは人間にとって何とも切ないものです。
徳川家康は「泣かぬなら、泣くまで待とうほととぎす」と、その心境を詠んだものの、おおむね人間は「待つ」ということがたまらなく苦手なのです。

テレビコマーシャルで「三分間待つのだよ」という、カップラーメンのキャッチフレーズがありました。これは、わずか三分、三分間でさえも待てない現代人の我慢のなさを、はっきりあらわしているかと思います。三分間でさえ待てないのです。なぜでしょうか?それは、待つということは、自分を捨てて相手に、或いは、向こう側に身をゆだねてしまうことだからです。やるべきことをやり、向こう側にすべてをおまかせしてしまうことといってもいいでしょう。私達の人生において、じっくり待たなければならないことが多々あるのです。

“果報は寝て待て”

“待てば海路の日和あり”


安平町 見龍寺
守屋 敬道


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2017年4月15日放送「幸せになるために」

あなたは幸せですか?と問われたら何とお答えになりますか?先日、ある勉強会で講師の方にそのように聞かれました。私は迷わず「幸せです」と答えましたが、ある調査によりますと先進国といわれる国の中で、日本人が最も幸福度が低いという結果が出たそうです。

もちろん人それぞれ幸せの定義は違うわけですが、人の幸福度についてとても興味深い研究結果があるそうです。それは幸福度の50パーセントは遺伝子的要素で決まると。更に残りの10パーセントが環境的な要因、40パーセントが本人の行動だそうです。
そもそも遺伝子で決まっているのだから自分ではどうしようもない。日本人に生まれたのだから、この親から生まれたのだから幸福度が低くて当然だともとれますが、しかし、この研究結果の中で重要なのはそこではなく残りの40パーセントは自分の行動でなんとかなるというところです。

幸福度を決めるのは生い立ちや自分の立場、学歴、社会的地位など、今の状況よりも、これから自分がどのように行動するかがその四倍もの要素であるということです。

ではどうしたらいいのか?仏教では正しい行いをすること、善いことをする、悪いことをしないことで幸せになれると示されております。仏教とは幸せに生きるための教えです。善いことはこれからも続けていく、今から始めても遅くはありません。大事なのは実行することです。

更にある調査結果によりますと年齢を重ねるごとに幸福度は高くなる傾向があるそうです。今は幸せだとは思えなくても、正しい行いをしていればいつか幸せだと思える日が来る、そう信じて行動していくことが、きっと自分を幸せにしてくれるのでしょう。


岩見沢市 孝禅寺
安彦 智峰


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2017年4月8日放送「花祭り」

本日、4月8日は、お釈迦様のお誕生日です。全国各地のお寺では、この時期に「花祭り」が行われます。

お釈迦様は、現在のネパール南部のルンビニという村の花園でお生まれになりました。ご存知の方も多いかと思いますが、お生まれになってすぐに7歩歩き、右手を天に、左手で地を指差して「天上天下唯我独尊」とおっしゃったと伝えられております。
更にその時、竜の王様が甘い水を注いで祝福したとも伝えられており、それに倣いまして花祭りでは、花御堂の中の誕生仏に甘茶を注いでお祝いいたします。

曹洞宗の御詠歌の中に、この花祭りの御詠歌もございますので、今からお唱えいたします。

心の花も咲き匂う  卯月八日の花祭り

幼姿のみ仏に    甘茶灌ぎて祝わなん

花祭りを通して、約2500年前の方を想って甘茶を注いでいる、自らの尊さにも気付きましょう。


札幌市 峯光寺
小野 隆見


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2017年4月1日放送「万物尖新(ばんもつせんしん)」

今日から四月一日、新年度です。ここ北海道も長い冬がやっと終わり新緑の春を迎えます。春分の日から少しずつ昼の時間が長くなり、毎日そのことが実感されます。北海道の春はモノクロの世界であった冬から色にあふれた世界へと劇的な変化を見せ、喜びもひとしおであります。そんな春の始まりである新年度最初の日を、それぞれにいろいろな環境でお迎えのことと存じます。

中には何も変わらないという人もいらっしゃるかもしれませんが、多くの方は新しい学校、新しい職場、新しい立場など状況が変化していることと思います。

禅の言葉に「万物尖新(ばんもつせんしん)」という言葉があります。この言葉は法要儀式の中に出てくる言葉で非常に重要な言葉です。
万物これは−すべてのものという意味でよろずという字に物の字を用います。尖新−これは尖るという字に新しいという字を用います。つまりこの言葉の意味するところはすべてのものは丁度この春の木の芽のように常に新たに芽吹いているということであります。何が芽吹くのかというと仏性−仏心といってもよいでしょうが人間が持っている本質即ち仏性ということであります。

春風に吹かれて新緑の木の芽が芽吹くのは分かり易く目に鮮やかに映る現象です。しかし、木の芽は冬の寒風に晒されることがなければ芽吹きません。新緑の木の芽は実は既に厳寒の真冬の中で始まっているのです。取り巻く環境が冬と見えても春と見えても芽吹くべき新芽が自身の中に実は存在しているのです。

「万物は尖新」です。

全ては日々刻刻に新しいのです。


札幌市 養福寺
河村 康秀


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2017年3月25日放送「逃げるは恥だが役に立つ」

「逃げるは恥だが役に立つ」。昨年末に放映されておりましたドラマでご存知の方も多いでしょう。とても視聴率が高かったようで大きな話題となりました。
その中で私が一番関心があったのは、その内容ではなくこの題名、「逃げるは恥だが役に立つ」という言葉です。

調べてみますと、この語源はハンガリーの諺にあるそうです。直訳しますと「自分の戦う場所を選べ」「自分の土俵で戦え」「自分の得意分野で勝負しろ」。

「人はそれぞれ得意不得意がある。後ろ向きな決断を下すことがあっても、それはその時は恥であっても、そのことによって自分のやるべきことがみつかるのならばいいことじゃないか」。
「恥をかいても生き抜くことが大切で、生きてさえいればきっといいことがあるさ」とも解釈できます。

常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)さまはどんな人にも分け隔てなく「あなたは必ず仏になれますよ」と言って礼拝して歩いていたそうです。
しかしそんな姿を良く思わない者も多く、悪口や罵るもの、中には杖や石などで攻撃するものもいたそうですが、決して腹を立てずに、やり返すことは無かったそうです。そんな時にはその場所を逃げて、遠くから大声で言ったそうです。

常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)さまはお釈迦さまの教えをひろめるという目的を果たすために耐え忍び、体と命を大事にされて最良の方法を実践されたのです。

逃げるという行動はいいことではなく、その場に踏みとどまって耐え忍ぶことがいいこととされることが多いようですが、必ずしもそうではありません。「三十六計逃げるに如かず」。一時恥となっても、いい結果となるならば、逃げることが最良の策となるのです。


岩見沢市 孝禅寺
安彦 智峰


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2017年3月18日放送「匙は、その味を知らず」

『匙(さじ)は、その味を知らず』お釈迦さまのお言葉です。
『匙は、その味を知らず』

匙は、物をすくったり、塗ったり、混ぜたり、食べるとき、計るとき、色々な場面で使われます。熱いお茶に入れられたり、冷たいアイスクリームの中に刺されたりと、大活躍です。

しかし、匙には、熱いも冷たいも、美味しいも不味いも関係ありません。
匙は、何も知らず何も感じません。
でも、私たち人間は、『匙』であってはいけないと、お釈迦さまが教えられているのです。

恵まれた環境にいることに気付かずにいたり、すぐ隣の人の苦しみ哀しみを想いはかり察することもない、そんな人間にはなるなということです。
多くの縁、関わりの中に、この身をおく私たちは、無関心でいること無く、心をやわらかく、やわらかい心を持たなければならないということです。
堅い心から生まれてくるものには素敵なものなど無いはずです。

テレビCMにも使われた相田みつをさんの言葉があります。
『セトモノとセトモノと ぶつかりっこすると すぐこわれちゃう
 どっちか やわらかければ だいじょうぶ
 やわらかい こころをもちましょう
 そういうわたしは いつもセトモノ』

匙やセトモノで終わらない心を、人の苦しみ哀しみを察しうる心を、美しいもの微笑ましいものにも感じ入る心を、そんなやわらかく広い心でありますように。


札幌市 含笑寺
神谷 俊英


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2017年3月11日放送「禅師と饅頭」

大正時代初期のお話でございます。
あるお寺へ、大本山永平寺より禅師様がご法要に参られました。

少し離れたお寺の御老僧が禅師様と親交が深く、是非ご挨拶に伺いたいが、どうしても都合がつかず、代わりに弟子の小僧さんに菓子折りを持たせ挨拶に遣わせました。

小僧さんはお寺へ到着し、すぐに禅師様のお部屋へ通されましたが、緊張で挨拶もできず、禅師様の前に出されている饅頭をじっと見つめて、禅師様の話に頷くのが精一杯でした。

禅師様は小僧さんにどんなお坊さんになりたいかと聞いたそうですが、小僧さんは緊張で何も答えられず、黙っていると、禅師様は自分の饅頭を手に取り、小僧さんの手のひらに饅頭を一つ乗せ「お前さん、坐禅一筋に生きなさい」とおっしゃられたそうです。

その瞬間、小僧さんの緊張はハッと解け、目の前のとても偉いお方が、自分の師匠と同じ事をおっしゃられた、これは間違いない自分は坐禅の道で生きようと心に決めたそうです。

小僧さんは、師匠の遣いとして、朝から長い道のりを歩き、緊張の中このお寺へやってきた。甘い饅頭などは普段滅多に口にできないだろうし、師匠の御老僧は坐禅一筋のお方である。
目の前で姿勢を正し、黙って座っている小僧さんを同事の心で理解された禅師様は、小僧さんが好きであろう甘い饅頭を布施して緊張をほぐし、進むべき道を愛語で示されたわけでございます。

あの日禅師様から饅頭を頂き、坐禅一筋に修行された小僧さんは、後に大本山永平寺七十八世の大禅師猊下となられ、全国各地で出会った小僧さんにはいつも優しく温かいお言葉をかけ続けておられたそうです。


札幌市 大昌寺
佐藤 文尊


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2017年3月4日放送「祈る」

近年、祈るという行為が心身に良い影響をもたらすという報告が精神神経免疫学という医学の分野でなされているようです。

ラジオをお聴きの皆様の中にも、たとえばお仏壇の前で手を合わせ、祈ったり願ったりされる方もおいででしょう。

私たち僧侶は読経の結びに必ず「回向文(えこうもん)」というものをお唱えいたします。回向(えこう)とは自身の善業によって生じた功徳を、他のものに巡らしたむけんと祈る事です。
本日はその回向文(えこうもん)の中でも最も短い「普回向(ふえこう)」というものをご紹介いたします。普回向(ふえこう)の「普」はあまねくの意味です。

次のようにお唱えいたします。
「願わくは、この功徳を持って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを」
と、このようにお唱えいたします。

意味は次のようなものです。
「私は願います。今お勤めしたこの功徳が、私たち人間を含めた生きとし生けるもの全てに巡り行き渡りますように。そして人々がお釈迦様の教えに即した生き方ができますように」
という意味です。

さて、私の勤めるお寺に、月に一度、今年小学生になったお子さんと、そのお母さんがお寺へお参りに来られます。その子のお父さんが眠る納骨堂の前へ手を合わせに来られるのです。納骨棚の前でお経を唱え、最後に一緒に普回向(ふえこう)をお唱え、手を合わせます。
手を合わせるその子の姿に、私は命の尊さを感じます。

気がつけば三月。北国も長い冬を過ぎ、これからお彼岸を迎えます。ご先祖様からのご縁を通じて、今を生かされているこの命に感謝をし、皆様の安心(あんじん)を祈ります。

今日という日が、皆様にとって良き一日となりますように。

「願わくは、この功徳を持って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを」

合掌


札幌市 瑞現寺
斎藤 徳光


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2017年2月25日放送「奇跡」

お釈迦様がお説きになられた、『父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)』というお経に、次のような一説がございます。

「全ての人々よ、父には慈恩(じおん)があり、母には悲恩(ひおん)がある事を忘れてはならない。人間がこの世に生まれてくるという事は、その人がこの世にどうしても必要な存在だという尊い約束にもとづき、その人の父母の命をよるべとして、生まれてくるのだ。」

さて、私達がこの世に今こうして存在できておりますのは、勿論、お一人お一人のお力によるものですが、御先祖様、そして私達を直接お生み下さった御両親様の御存在あっての事と存じます。

又、ある本に次のような事が書かれておりました。
一組の両親から、どれだけの遺伝子のパターンを持った子供が生まれてくるのか。これを計算致しますと、その可能性は七十兆だそうです。
私達は七十兆分の一なのです。これはもう奇跡的な数字です。まさに、私達は七十兆の中から選ばれて生まれてきた、かけがえのない一人なのです。

私達がどんなに人類をさかのぼっても自分と同じ人間は絶対にいませんし、人類の歴史がどんなに続いても、自分と同じ人間は生まれてこない、今現在を生きている私という存在は、過去にも未来にも存在しないのです。

世情、命を軽んじるような事件が数多く起こっておりますが、奇跡ともいうべき確率でこの世に生を受けた私達は、自分の命は勿論の事、他人様の命も大切にし、そして又、この世に私達を生んで下さった御両親様始め、御先祖様方に日頃より感謝の気持ちを持たれる事が大事なのではないかと思います。


夕張市 錦楓寺
磯西 道由


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2017年2月18日放送「善い行い」

仏さまの教えに「わるいことはしない。よいことをする。そうすれば心が清らかになる。」というものがあります。じつに簡単そうなことですが、実際に行動に移そうとするとなかなか大変なことでございます。

善いことを積み重ねることを「徳を積む」などと申しますが、善いことをしてもそこに見返りを求める心や、人に褒めてもらおうとする心があったりするとそれはなんの値打もないものになってしまいます。
人に見せびらかさず見えないところでする善い行いが本当に価値のあるものでこれを私たちは「陰徳を積む」と申しております。

もっというと誰も見ていない誰も知らないならば、平気で悪い行いをして、誰かが見ているところでは善い人を演じる。このようなことはしていないでしょうか?

人が見ているところでゴミをポイ捨てする人はなかなかいませんが、誰も見ていないところでポイ捨てをしてしまう人は実のところかなりいる気がいたします。

人が見ているから善い行いをするのではなく誰も知らなくても見ていなくても善い行いをすることが「陰徳を積む」ということです。

言うは易く行うは難しですが、まず例えば玄関の靴やスリッパが乱れていたら直すように心がける。毎朝、仏壇の水とご飯を替えることを約束する。

なんでもよいのですがこれらのことを長く長く続けてください。10年続けることが出来たならそれは日常の生活の一部となっていて、何の見返りも求めずに自分でも気付かずに陰徳を積めていることになります。
大切なのは続けることです。

自分の良心にしたがって正しいことを積み重ねていっていただきたく思います。


夕張市 禅峯寺
安藤 英賢


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2017年2月11日放送「明珠在掌」

皆さんは、「幸せの青い鳥」という童話をご存知でしょうか?兄のチルチルと、妹のミチルが、幸せの青い鳥を探して夢の世界へ旅に出るお話です。
二人はいくつもの不思議な国を巡って青い鳥を連れて帰ろうとしましたが、とうとう果たせませんでした。ベッドの上で目が覚めて、ふと鳥かごを見ると、かごの中に探していた青い鳥の羽根が入っていました。
わざわざ探しに行かなくても、きょうだいが家で飼っていた鳩こそが、実は幸せの青い鳥だったのです。

このお話は、幸せは自分のすぐ近くにあるのに、我々はそのことになかなか気付かないものなんだと教えてくれています。

「明珠在掌(みょうじゅてのひらにあり)」「明珠在掌」という禅の言葉があります。素晴らしい宝物は、最初から手のひらの中にあるのだ、という意味です。

数年前にあるお檀家さんにお参りに伺った際、ご主人を亡くされたおばあちゃんが、私にこんな話をしてくれました。
「若さんね、旦那が生きてるときは、腹を立ててケンカしたこともあったよ。けど、亡くなった今となっては全てが懐かしく思える。愛おしく思えるんだよ」と。

私は「亡くなった今となっては全てが懐かしく思える。愛おしく思える」という言葉に深い深い愛情を感じると共に、そうは言ってもそのおばあちゃんはご主人のことを元気なうちから大切に思っていたんだろうなと感じました。
一番身近な存在の大切さ、いてくれる有り難さに気付いていたんだろうなと思いました。

幸せは自分のすぐ近くにある。素晴らしい宝物は最初から手のひらの中にある。
皆さんのすぐ近くにも、きっと幸せや宝物があるはず。必要なのは、探しに行くことより、気付くことです。


千歳市 大禅寺
押見 正貴


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2017年2月4日放送「小さなほとけさま」

本日は「利行」と言う教えについてお話を致します。
「利行」とは見返りを求めずに人助けをする仏様の行いです。

先日境内の落ち葉を掃き掃除しておりますと見知らぬ小さな男の子が自転車で私の元へやってまいりました。
「こんにちは、お坊さん何してるの?」
「ほうきで落ち葉を集めてお掃除をしてるんだよ」
「ふーん、僕はね今パトロールしてるんだ。僕もお手伝いしても良いですか?」
「え、あ、ありがとう、じゃあ宜しく頼むね」

話を聞くとその子は近くの保育園に通う五歳の男の子でありました。
十分程が経ち私が「もういいよ、どうもありがとう」と言うと「えー!でも、まだ向こうにも落ち葉があるよ」と言って男の子は箒を持って駆け出して行きます。

結局それから一時間近くも境内の掃除を一生懸命手伝ってくれたのです。
「どうもありがとう。おかげで綺麗になったよ。これお礼にチョコレートどうぞ」
「そんなのいらないよ、でもその代わりまたお手伝いに来ても良いですか?」
「もちろんだよ、ほんとに今日はどうもありがとう」

私はこのとき小さな男の子にほとけさまの姿を見ました。
改めて「利行、見返りを求めずに人助けをする仏様の行い」を教えて戴いたのです。

それ以来お寺には時々、自転車に乗った小さなほとけさまが掃除を手伝いに来てくれるようになったのでした。


安平町 瑞雲寺
増坂 泰俊


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2017年1月28日放送「お不動さん」

2017年がはじまり間もなく一月が経とうとしております。
年末をご家族とゆっくり過ごし、年が明け心新たにお寺や神社にお参りされた事と拝察致します。
初詣や厄払い、節分の御祈祷とこの時期は、各地で身と心を浄めるお勤めが多くございます。

大安寺では本日十二時より不動尊の法要が執り行われます。
皆様にはお不動さんと呼ばれ親しまれております。
以前は開基松岡家にお祀りされ、地域の皆様にお参りされておりました。
ある時お祀りしていた建物が火災にあいました。
しかしお不動さんはその中から奇跡的に焼け残り、その後はお祀りする場所を大安寺本堂へと移し、文字通りこの地の不動の守護尊として私たちを見守ってくださっております。

お不動さんは怖しい姿をされております。
剣で悪しきものを遠ざけ、煩悩、私たちの欲を打ち砕き、迷いを断切り、願いを成就させ、良きご縁へと導いて下さいます。
お不動さんは、私たちに所願成就と良きご縁は、欲深き迷いの先にはないという事を、お姿を持ってお伝えくださっております。

菩提寺様、近隣のお寺様へ足を運び、この時期は仏縁を深めて頂ければ幸いでございます。
2017年、皆様の家内安全、諸縁吉祥をお祈り申しあげます。


室蘭市 大安寺
岡部 良道


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2017年1月21日放送「洗面・歯磨き」

みなさま、今朝起きられてから洗面、歯磨きは、お済ませでしょうか?
毎朝、何気なく洗面と歯磨きをされている方も多いと思いますが、この洗面・歯磨きという行いが大事な修行の一つであると、曹洞宗の開祖である道元禅師は説かれているのです。

道元禅師が修行されていた当時の中国では、洗面は行われていましたが、歯を磨くという習慣が一般的ではなかったと言われています。
逆に当時の日本では、口をすすぐ程度のことは行われていましたが、洗面は行っていなかったそうです。

道元禅師は、これが一得一失であると考え、顔や歯を清潔にしない状態で人と接することや様々な行いをすることは無礼であり、単に自分の顔を洗うのではなく、洗面をすることは自分自身を浄めその行いが世の中を浄めると示され、汚れていようと、汚れていまいと洗面・歯磨きを行うことも修行の一つであるとして、洗面と歯磨きの両方を行うべきであると説かれました。

洗面については、水よりお湯の方が汚れが落ちるので、お湯を使って顔全体から耳の裏、頭の上に至るすみずみまで洗うことなど、歯磨きについては、楊枝の端を噛み潰して細かくしそれを使って磨き、舌も刮ぐことなど、正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)の中で所作や使用する物について事細かに示されました。

この道元禅師が説かれた洗面・歯磨きの教えが一般の人々に広まり現代の洗面と歯磨きが習慣となっていったのです。


小樽市 興聖寺
清水 英詔


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2017年1月14日放送「無功徳」

冬真只中の1月、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
まだストーブがついていない寒い部屋の中で、私はなかなか温かい布団から抜け出すことが出来ず、やっとの思いで起き上がっている毎日でございます。

そんな私のとある朝の出来事です。
顔を洗い、朝食を頂き、さあお寺に向かおうと外に出てみれば、待っているのは辺り一面の白銀世界。先ほど頂いたお味噌汁のおかげで温まった身体も、一気に冷めてしまいます。
せっせと雪掻きをし、やっとひと段落ついてお寺に行ってみれば、またまた一面白銀世界。一層気合を入れ、またせっせと雪掻き。

そんな中、毎朝お寺にお参りに来られるお檀家さんが来られました。
「おはようございます、知道さん。毎朝雪掻きお疲れ様。いつもこのお寺を綺麗にしてくれて、ありがとうね。」
この言葉を頂いた時、ポカポカと、身体だけではなく、心も温まっていくのを感じました。頑張った甲斐あったな〜って。

仏教には無功徳という言葉があります。どんな事にも見返りを求めてはならない。利益を求めず行うことで、初めて善行となされるといいます。なかなか厳しい教えでございます。
ですが、そこに相対する人が、慈悲の心をもって接すれば、愛語をもって接すれば、お互いの心に温かみが生まれ、これ以上のない功徳になるのだと、あらためて思い知りました。

寒さの厳しい北海道の冬ですが、人の温かさというものは、そんな寒さも吹き飛ばしてくれます。皆さまも是非、私のような寒がりな人を見かけましたら、慈悲の心をもって接してあげて下さい。


小樽市 円龍寺
桑田 知道


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2017年1月7日放送「感謝」

昨年も地震、台風、豪雨などの自然災害によって甚大な被害がもたらされた年となりました。被害に遭われました方々に心よりお見舞い申し上げますとともに、今年こそは平穏な一年でありますようにと祈念致すところでございます。

さて、「一年の計は元旦にあり」という言葉がある通り、物事を始めるにはまずきちんとした計画を立てることが大切です。皆さまもそれぞれの目標を立てて新年を迎えられたことでしょう。しかし、目標を成し遂げるためには様々な困難や悩み、苦しみなどを伴うことがあります。そんな時には今自分が存在すること、生きているということがご先祖様やご両親はもちろん、自分を支えてくれる多くの方々のお陰であるということに気づき、感謝する心を持ちましょう。感謝し孝行することは仏さまになる道であり、悩みを解決するための道となるのです。

本年は酉年です。この酉年の酉という字には果実が成熟した状態、実った状態という意味があるそうです。皆さまにとりましても実り多き一年となりますことを心よりご祈念申し上げます。


曹洞宗北海道管区教化センター 統監
藤原 重孝


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